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外部から乃木坂46を支えるモノ-批評とデザイン- ~「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46 vol.1」後編~

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「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46 vol.01」©KADOKAWA

「別冊カドカワ総力特集 乃木坂46 vol.1」の中で、齋藤飛鳥のエッセイ以外で非常に面白いと思ったのが、「ミッツ・マングローブ×生駒里奈」の対談と、「乃木坂46のクリエイションについて考える」の「タイポグラフィ」の話だ。

どちらの企画にしても、惹かれたのは乃木坂46のメンバー自身の言葉ではなく、その点が少し残念だったが、乃木坂46というものを外から捉えた時に出てくる言葉もまた非常に興味深いものがあるな、と感じた。

アイドルは“努力”を評価してもらう存在ではない

これまで僕は、ミッツ・マングローブという人に特段のイメージは持っていなかったが、物事を見る視点や、目の前の現実を切り取る言葉が実に素晴らしかった。感覚で捉えたものを論理の力で言葉として放出する、その凄さみたいなものをこの対談から感じた。

『今はステージと客席の“段差”が無いようなもので、テレビ画面とお茶の間の距離も無くなってきてるでしょ。これは大きい意味で、芸能の質を下げちゃうと思う。シビアに“区別”しないと、お客さんが楽しみ方を忘れちゃうから。こっちでピシッと線を引いてあげることが、芸事をする上の義務だと思う。線を引いた上で「観たいならお金を払って!」「お金を払っていただいたらキッチリ満足させますから」って仕事をするの』

「会いにいけるアイドル」としてAKB48が生まれ、そのライバルとして登場した乃木坂46としては、『ステージと客席の“段差”が無い』という話は、スッと入ってくるものではないだろう。何故なら彼女たちにとって、そういう時代がもう当たり前だったからだ。当たり前であることに違和感を持ったり、腑に落ちたりという感覚を抱くことは難しい。専用の劇場を持たない乃木坂46には、その段差の無さを如実に実感する機会は少ないかもしれない。しかしそれでも、感覚的には段差が無い状態の方が自然に思えるだろう。そういう時代なのだ。生駒里奈も、『そういう発想は全然なかったです』と言っている通り、これは新しい視点を獲得するきっかけになっただろう。

昔のアイドルとの違いでは、ミッツ・マングローブがこんな風に言う場面もある。

『ひとつの課題をクリアするとすぐに次の課題を自分の中で持たなきゃいけないなんて、今のアイドルは過酷だよね。』

昔のことは僕はよく知らないが、昔のアイドルの場合、「アイドルとしてデビューする」ことが一つの目標であっただろう。さらにそこから「どう芸能界で残っていくか」「アイドルを辞めたら何をするか」という問いが突きつけられる日が来るのだろうけど、それまでは目の前にある仕事を全力でこなせばいい。

ただ、モーニング娘。の成長がテレビ番組で逐一放送されたり、選抜という仕組みによって競争が激しくなったりする中で、「アイドルとしてデビューする」というのが一つの通過点に過ぎない現実が徐々に明確になっていく。彼女たちは、常に何かに追われているのだ。

さらに、現在の選抜が基本にあるシステムの中では、必ずしも努力が結果に結びつくわけではない、という点も彼女たちを苦しめる。選抜されるかどうか、という場は与えられる。しかし、何をすればそこで選抜に選ばれるのか、という具体的な指針はない。そういう中で彼女たちは、自分で課題を発見し、それを克服し、さらに別の課題を見つけ……という繰り返しの中に自分の身を置かざるを得なくなっていくのだ。

『ただ、それは聖子ちゃんが制服を着るために“一生懸命に頑張っている”ってわけじゃないの。本当のアイドルって、“アイドルになろうと一生懸命に頑張らなくてもいい人”なのよ。
もちろん努力はするんだよ。だけど、「一生懸命やってるからアイドルとして認めてください」っていうのは矛盾でしかなくて。アイドルって“存在”や“在りよう”だからね。俳優でもスポーツ選手でも、努力した上で他の誰にもない力を発揮して、それを観たお客さんが「この人はアイドルだ」って感じるものなんだよ。例えば、羽生結弦くんは存在の仕方としてアイドルだと思うし、古いところでは長嶋(茂雄)さんだってそうだから』

努力を否定はしない。しかし、努力を超えた先にあるものがアイドルなのだ、という話を明確にする。
現代では、『一生懸命やってる』ことが、アイドルを推す一つの理由になっているようには思う。そこは時代の変化なのだろうけど、でもそうであるが故に、誰の中にも当然存在するような“アイドルとしてのアイコン”のような存在がいなくなった、と見ることも出来るかもしれない。もちろん今のアイドルのありようを否定するわけではないけど、アイドルというのは存在そのものがアイドルなのだ、そこには努力だけでは決して辿り着けないのだ、という話には納得させられた。

今のアイドルにはあまり興味はないし、パッと目に入ってくる子じゃないと覚えられない、と語るミッツ・マングローブは、しかし生駒里奈のことはすぐさま覚えたと言う。

『芸能の世界の勝負ってそういうことだと思うの。まずは覚えてもらえるかどうか。そこは努力してどうにかなるものじゃなくて、天賦の才なんだよね。』

『最近のアイドルには、いわゆる“アイドル性”が無いからこそ、昔のアイドルを知っている大人たちが面白がれるんじゃないかな』と言うミッツ・マングローブは、生駒里奈の中に何らかの“アイドル性”を見出し、注目した。僕にとっても、ドキュメンタリー映画「悲しみの忘れ方」の中で最も強いインパクトを残したのが生駒里奈だった(僕はその時点で、生駒里奈がデビュー当時センターを連続して経験した、という事実さえ知らなかったので、メンバーそれぞれをフラットに見れていたと思う)。確かに生駒里奈は、取り上げられる場面がとても多かった。その回数に比例して印象に残った可能性もあるけど、でも僕も生駒里奈に、何か持ってる子なんだな、という雰囲気を感じたのだと思う。

ミッツ・マングローブが、「トップアイドルであるということ」を、非常に面白い表現で語っている部分がある。

『乃木坂のファンじゃない若い子たちが、社会人になってカラオケに行った時に、「なんか昔、シャンプーの歌あったよね」って。
そういうふうに残っていくことがトップアイドルの宿命だし、義務でもあると思うの。』

意識を向けていない人にも残る存在。それがトップアイドルだと、ミッツ・マングローブは指摘する。そしてそこに向かうためには、時には非情にならなければならない場面も来るはずだ、と生駒里奈に語る。

『幸福論を語るつもりはないけどさ、本当にこの世界で幸せになりたいなら、人を出し抜くことも必要だと思うのね。でも生駒ちゃんはそういうことに抵抗を感じるタイプの人間でしょ?もし、そんなふうに感じてしまうことがあったら、そのときは私とご飯でも行きましょう』

ミッツ・マングローブのことがとても好きになる対談だった。

デザインが可能にしたコミュニケーション

さて、もう一方の「タイポグラフィ」の話に移る。正直この部分を読み始める前は、「いくら乃木坂46に関係する話とはいえ、タイポグラフィの話はないでしょ」と思っていた。しかし予想以上に面白かったので、ある意味で拾い物だったと言えるだろう。

タイポグラフィに関しては、3名(3グループという表記の方が正確だろうか)の登壇者がいるのだが、その中で、有馬トモユキ氏の考察が非情に面白かった。

有馬トモユキ氏は、乃木坂46のCDジャケットについて考察をするのだけど、その中で非常に面白い指摘だと感じた点が2点ある。「ウェブ時代のジャケット制作」と「ルールの明示」だ。

「ウェブ時代のジャケット制作」に関しては、言われれば確かにその通りと思うし、むしろ、こういうことを他のクリエイターがまだそこまでやっていないとすればその方が意外だ、と感じるものだった。

乃木坂46のCDジャケットは、ウェブ上で見られることを大前提にして制作されている、と有馬氏は指摘する。

『今、いちばん見ている媒体はスマホの画面ですから。それに最適化したジャケットって何だとなれば、最新のスマホのフレームにあてはめて美しいのはどれだということになる。乃木坂46のCDジャケットはそこをすでに捉えています』

なるほど、と思った。CDのジャケットは、確かにCDのジャケットとして認識されることもあるが、それ以上に、何らかの形でウェブ上で見られる機会の方が圧倒的に多い、そんな世の中になっている。その中で、ウェブで見た時に最も美しいデザインになるように作る、というのは、非常に納得感のある話だった。

もう一つの「ルールの明示」は少し説明が必要になる。

『デザインがルールを語っている。ファンに対してどこで遊んでいいのか、どうコミュニケーションしていったらいいのかということをジャケットで提示しています。デザインが、ルールブックとしても機能している気がします』

そう有馬氏は主張する。

有馬氏はまず、「乃木坂46」というロゴそのものの分析をする。その分析も面白いのだが、さらにそこから、「乃木坂46では、CDジャケットごとにロゴを作り変えている」という点に着目する。

僕はほとんどCDを買わないし、CDジャケットもちゃんと見ることがないので分からないが、本書の書きぶりでは、ミュージシャンの公式のロゴを、それぞれのCDジャケットにも統一で載せる、というのが一般的なやり方なのだろう、と理解した。しかし乃木坂46はそうではない。CDジャケット毎に違ったロゴを作り出している。その作品の世界観やCDジャケットの雰囲気に合わせて、「乃木坂46」というロゴが毎回変わる。

そしてこの点が、「どこまで遊んでいいのかというルールを明示する」という機能になっているのではないか、と有馬氏は言うのだ。

実際に乃木坂46のCDジャケットを制作している人たちがそういう意図でデザインをしているのか、それは本書からだけではわからないが、その指摘自体にはなるほどと思えた。

『乃木坂46の場合、“学校”っていうフレームから飛び出さない限りはほぼ自由なのでしょう』

その点がファン側にきちんと伝わっているかどうかはともかくとして、作り手側がそういう意図を持ってデザインをしているとしたら、凄く面白いなと思った。専用の劇場を持たない乃木坂46は、常時ファンと接する場を持てるわけではない。その交流の不足を、CDジャケットのデザインで補おう、という発想なのだとしたら、専用の劇場を持たなかったことが乃木坂46というグループをさらに特異にする要素になるのだな、と思わされた。

『デザインにおいて、「ただなんとなく」は絶対に成立しません。少なくともデザインした人はあらゆることを考えているし、クライアントに理由をプレゼンしているはずですから』

これは有馬氏の言葉ではなく、大日本タイポ組合の塚田氏の言葉だ。今までデザインというのは、センスがなければ捉えられないものだと思っていたけど、芸術はともかく、商業デザインであれば、デザインの意味を言葉で捉えることが出来るのか!という新しい発見のある企画で、実に面白かった。

綾小路翔と加藤ひさしの乃木坂46の捉え方

他に気になった言葉をいくつか拾ってみる。
まず、イベントで乃木坂46とコラボしたことのある氣志團の綾小路翔。

『(乃木坂46にオファーをした理由を問われ)この時期、いろいろな意味で飽和化し始めたような空気が漂っていたアイドルシーンにおいて、「真っ当である」ということで逆に違和感や異質感を放つ彼女たちに興味を持ち、活動をチェックするようになりました』

『(乃木坂46の魅力を問われ)実は泥臭いとこ。何かそこはかとなく野暮ったいんですよね。全員ルックスが良過ぎて世間的には騙せてるのかもしれないけど、実は田舎者臭がほんのり漂う感じ。あのギャップがいいですね』

次は、ロックバンド「THE COLLECTORS」のボーカリストであり、多くのアーティストに楽曲や歌詞を提供している加藤ひさし。

『(「君の名は希望」を聞いて)アイドルはおちゃらけてて、ロックバンドのディープなヤツらが文学的だと持てはやされた傾向があったけど、そんな連中も太刀打ちできないぐらいすごいところに来てると感じました、乃木坂46自体が。また、歌ってる本人たちがそれに気付いてなくて歌ってるような純真さ、イノセントぶりが余計恐ろしさを生んでるんです。もしロックバンドがこういう歌詞を歌ったら、「これが俺の青春だ!」と言わんばかりに感情移入して暑苦しくなると思うんです。気持ちが空回りしちゃって、聴いてるほうも「ハイハイ、わかったよ。ずいぶんツラかったんだね」って。でもアイドルってそういうところが二次元的だから、気持ち悪いぐらい真っすぐ心に入ってくるんです。』

全体的に、乃木坂46以外の人間の言葉に惹かれてしまったな、という印象だった。でも、僕もそうだが、乃木坂46の魅力の一つは、そういう、なんか語りたくなる部分がある、っていうことなのかな、という気もする。それは、一つの個性としてとても魅力的だな、と。本人たちがあれこれ語らなくても、周りが語りだしてしまう。そういう魅力を持った乃木坂46に、これからも注目していこうと思う。

(文・黒夜行)

※本稿は、筆者が2016年4月に投稿した記事を再編集したものです。

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PROFILE

黒夜行
書店員です。基本的に普段は本を読んでいます。映画「悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46」を見て、乃木坂46のファンになりました。良い意味でも悪い意味でも、読んでくれた方をザワザワさせる文章が書けたらいいなと思っています。面白がって読んでくれる方が少しでもいてくれれば幸いです。(個人ブログ「黒夜行」)

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