「期待する」というのは、「道を決める」ということでもあると思う。そうすることで、自分が決めた道に、自分の力を集結させることが出来る。「こうなりたい」「こうしたい」と期待することで、その方向だけに注力することが可能になる。
ただそれは同時に、「他の道の可能性を狭める」ということでもあると思っている。
『自然と何に対しても、期待をせずに生きていくっていう生き方が自分の中で一番合ってて。だから諦めっていうか、期待を持たないで生きてます』
齋藤飛鳥のこの生き方は、後ろ向きに捉えられることが多いのではないかと思う。こんな考えを持つ彼女に対して、「もっと自信を持って!」とか「強く願えばもっと先まで行けるのに!」といった感情を持つ人も、いるのかもしれない。
しかし、僕はその捉え方は違うのではないかと思っている。齋藤飛鳥は「期待」を捨てることで、「期待」を持つ以上の強さを手に入れているのではないかと思うのだ。
昨年末に発売された「日経エンタテインメント! アイドルSpecial2017」(日経BP社)の中で齋藤飛鳥はこんな風に語っている。
『私はファンの皆さんが抱いている私のイメージをまるまる全部は認めてはいないんですけど、自分らしさは自分が決めるものだとも思っていないんです。だから、齋藤飛鳥として求められるものにきちんと応えていきたいと思っています』
昨年6月に発売された「別冊カドカワ総力特集 乃木坂46 Vol.2」(KADOKAWA)の中でもこう語る。
『だからといって、そういう武器がほしいかと言われると…必要な時もあるんですけど、でもそういうのって周りから付けていただくものだと思うので。自分からこれをやろう、あれをやろうみたいなことは考えてないです』
これが齋藤飛鳥の強さなのだと僕は思う。
齋藤飛鳥は、期待しないことで、道を決めないままでいられる。自分が進むべき方向はこうだ、自分がやるべきことはこうだ、という考えを持たずにいられる。何かを期待すれば、自ずとそういう考えが出てきてしまう。そして、自分が決めたことと周りの評価が合わなかったり、自分が決めた道でうまくいかなかったりすると、どうしていいか分からなくなって悩んでしまう。齋藤飛鳥は、期待を持たないが故に、進むべき方向性について悩む必要から解放される。そこに彼女の強さがある。
道を決めない齋藤飛鳥は、何にでもなることが出来る。武術における「構え」は、どの方向に対しても、どんな動きにでも対応できる立ち方をするのが理想だ、というような話を聞いたことがあるが、齋藤飛鳥の在り方はそれに近いのではないか。どんな状況がやってきても、それに対応するのだというしなやかさ。マイナス思考であるが故に、何に対しても「怖さ」を感じてしまうのだろうが、それでも最終的には、そのしなやかさが「怖さ」に打ち勝つ。どんな方向にも、足を踏み出すことが出来る。「齋藤飛鳥」として求められることを全うできる。
彼女の期待しない生き方は、そんな強さの源泉なのだろうと思う。
『私がすごい弱っちい人間なので、期待を裏切られてショックを受けるのが怖いんです』
『(齋藤さんは「乃木坂46である自分を受け入れられない」という話をされていましたけど、なんで受け入れられないんですかね…、と問われて)
受け入れられないというか、「認めてやんねーぞ」みたいな感じです。乃木坂46って名前を、今いろんな方に知っていただいて、私はその名前を使って生きてるくらいの気持ちなので。自分に対して価値があるとは全く思ってないんです』
こんな風に自分を卑下するのは、もちろん本心だろう。しかし心のどこかで、自分が持つ強さの源泉を理解しているのではないかとも思う。何に対しても期待しないからこそ湧き上がる強さ、というものを認識しているからこそ、期待しない自分を貫くスタンスを崩さずにいられる、という可能性もあるのではないか。
『(それは本心ですか?それとも調子に乗って自分を見失わないためにあえて思っているんですか?と問われて)
本心ではありますけど、天狗にはなりたくないっていうのは、ずっと思ってることなので、それもあるかもしれないですね』
齋藤飛鳥も、最初から期待しない人間でいられたわけではない。
『デビューから3年くらい「THEアイドル」みたいな風になろうと思って、そこでいろんな痛い目を見たし、恥ずかしい思いをしたっていうのもあるし。自分はその役割じゃないかなっていうのも気づきました』
齋藤飛鳥がよく言うことだが、当初は「THEアイドル」を目指していた。それは彼女にとっての「理想のアイドル」でもある。その理想に近づけるようにという期待を持って、乃木坂46加入当初は努力していたという。しかし、そのやり方は齋藤飛鳥には合わなかった。「理想のアイドル」を目指す自分の在り方にもがいていただろう。
そのもがきの中から抜け出せた、というのが齋藤飛鳥の凄いところだ。恐らく、痛い目や恥ずかしい経験の度に立ち止まって、自分の言動の何がこの状況を招いたのかを思考し続けたのではないかと思う。そうやって少しずつ言動を変化させていきながら、その結果をフィードバックしていく。そんな風にして作り上げられた「齋藤飛鳥」という特異なアイドル像は、ある意味で唯一無二というか、誰にも真似出来ない存在感を生み出しているのだと思う。
『今も全然、自分のことをアイドルだと思っていないので』
『世の中が優しいからちょっと受け入れてもらってるだけです』
度々書くが、僕は乃木坂46で初めてアイドルというものを好きになったので、アイドル全体のことは分からない。ただ齋藤飛鳥を見ていると、彼女が新しいアイドル像を切り拓いているのだ、と思いたくなる。「THEアイドル」とは対極にいるように感じられる「齋藤飛鳥」が、日増しに世間での人気を高めていることがその証左だろう。彼女はセンターに選ばれた理由を、『「本当は嫌だけど、仕方ないからこいつにするか!」っていう、妥協に妥協を重ねた結果だと思っています(笑)』と言っているが、もちろんそんなわけはないだろう。彼女の、自分のスタイルに固執せず、それでいて独自の価値観は手放さず、同時に求められれば何にでもなることが出来る強さとしなやかさに、今の時代の人々は憧れ、追いかけたくなるのではないかと思う。
期待せず、道を決めない齋藤飛鳥の指針となっているのが、乃木坂46というグループの存在だ。「乃木坂46」という指針があるからこそ、「齋藤飛鳥」という存在が成り立つとも言える。齋藤飛鳥は、『乃木坂46に今いられているのもいろんなもののおかげでいられてるだけで、「自分の力じゃねーぞ」って思っちゃいます』と語っているが、僕の感覚で言えば、彼女は「乃木坂46に所属している」というよりは、「乃木坂46と同期している」のだと思う。「乃木坂46」という指針に合わせて自在に形を変える存在、ということだ。「乃木坂46」という指針を手放した(乃木坂46を卒業した)齋藤飛鳥は、「齋藤飛鳥」とはまるで違う人間になるのではないか。そんな風に感じさせもするのだ。
『(乃木坂46を辞めて社会に出るとなってもすんなり出れる自信があるのは何故か、と問われて)
乃木坂46で人間を作って頂いたからです。前までの私は、たぶんそのまま生きていたら、はぐれ者になってしまう人間だったと思います。でも、そんな自分をこのグループで更生してもらいました。それがなかったらこうはなっていない』
僕は齋藤飛鳥の「社会にすんなり出れる」という自信を疑いたい。乃木坂46を離れるということは、「乃木坂46」という指針を失うということだ(もちろん100%失うことはないだろうが)。今の「齋藤飛鳥」は、その指針と一体となっていると僕は感じる。乃木坂46を離れた場合、新たな指針を見つけ、それに馴染んでいくまでに、やはりまたそれなりの葛藤があるのではないかと思う。
とはいえ、アイドルや芸能界を辞めても生きていけるか、という問いであれば、齋藤飛鳥なら大丈夫だろうと思う。
『礼儀とかはちゃんとしたいなって思ってます。チヤホヤされがちじゃないですか、アイドル。もう5年間もチヤホヤされ続けてきて、でもそのチヤホヤを真に受けず、それを疑って生きてこれたってことは、逆に社会に出ても普通に生きていけるんじゃないかなって思うんです』
インタビューアーは前回、齋藤飛鳥が放った『虹は過大評価されすぎだと思う』という発言が印象的だったと、インタビューの冒頭で話している。それに対して齋藤飛鳥はこう語る。
『単純に、「あ~、虹だ。きれいだな」と思ったことはありますし、一つの自然現象として不思議だなって気持ちはあるんだけど、虹がかかったからってみんながこぞって写真を撮り出すのが…。ちょっと評価されすぎじゃないかなって。それに雨がかわいそう』
齋藤飛鳥は、チヤホヤされる「虹」ではなく、「虹」を生み出す「雨」に視線を向けることが出来る。それは人に対しても同じことが言える。チヤホヤされる「齋藤飛鳥」や「乃木坂46」ではなく、それらを支える者たちに目を向ける。
『私、スタッフさんがめちゃくちゃ好きなので、スタッフさんの影響は大きく受けていると思います。環境が一番ですね』
このインタビュー中、彼女はこの発言に最大の自信を覗かせる。自分自身ではない何かに自分の存在の核を託せる強さが、この発言に表れていると言えるだろう。
『いやいや、やっぱりそんなきれいな言葉は私にはもったいないですよ(笑)』
「虹」であるという認識から距離を置こうとする齋藤飛鳥だからこそ「虹」にも「雨」にもなることが出来るのだ。
厭世観は大人になる過程で誰しもが抱くもの。
それでも人は生きていかなくちゃいけない。希望を見つけて。
誰かの希望になることがあなたの仕事ですよ。飛鳥さん。
返信ありがとうございます!僕としては、とにかく生きててくれればいいなぁ、と。飛鳥さんには。ほどよく生きて下さい、飛鳥さん。