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乃木坂散歩道・第155回「舞台:生きてるものはいないのか」

 先日、東京・青山円形劇場で上演された、若月佑美さん出演舞台「生きてるものはいないのか」を観てきました。非常に難解なストーリーでした。この舞台を御覧になった皆さんを中心に、是非読んでいただけたらと思います。

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青山円劇カウンシル アンコール 『生きてるものはいないのか』-ネルケプランニングより

「この舞台の意味」

 僕はこの「散歩道」を書きたいが故に乃木坂のイベントに参加することがあります。中でも観て思ったままの感想を書けばある程度の形になる『舞台』は比較的書きやすく、あの日もどんな舞台が観られるのかというのは勿論、どんな記事が書けるのかも楽しみにしていました。
 そんな、多少安易な思いで参加した、今回の舞台「生きてるものはいないのか」は非常に強敵でした……。まず、観終えた後の感想が「え?」の一言でした(笑) 僕はこの舞台の意味が全く理解できなかったのです。

 僕の思考法というのは単純で、『意味を考える』というのが、僕のやり方です。タイトルの意味を考える、台詞の意味を考える、何故? 何故?と考えていく中で文章が出来上がっていきます。

 「生きてるものはいないのか」では、登場人物がどんどん死んでいきます。とにかく死にます。そして、舞台上は死体の山と化します。そこで僕は考えるわけです、「この人達は何故死ななければならないのか?」と。その答えが得られるものだと思っているうちに、いつの間にかラストシーンを迎え、そして、舞台は終わってしまいました。

 僕は途方に暮れてしまいます。答えが得られないまま終わってしまった舞台、浮かんでこない感想、記事を書きたいのにどうすればいいのだろうと。

 帰途につく間中、僕はただただ考えました、あの舞台の意味を。でも、どうしてもわかりませんでした。この舞台って単なる作り手の『自己満足』ではないかと思ったほどです。

 ただ、一方で受け取り側の僕に問題がある可能性も浮かびました。舞台といえば乃木坂関連の舞台しか観たことのない僕です。経験不足は否めません。そう思って、僕はSNSに助けを求めました。この舞台を観た方の感想を探したのです。

「不条理劇」

 僕にはわからなかった答えを求めたSNS、そこで見つけた言葉が「不条理劇」でした。ここにuni_uniさんという方の感想を引用させていただきます。

”多分、一般的な受けというか、理解のされ方を考えると、若様(若月佑美さん)の不条理劇よりもSETのミュージカルアクションコメディの方が、わかりやすいし楽しいって言ってもらえるだろうな。どっちの作品が良い悪いでは無いけど、観劇経験の差で評価は別れるかも。”

※SETとは劇団スーパー・エキセントリック・シアターのこと。サンシャイン劇場で公演中の舞台「Mr.カミナリ」には衛藤美彩さんと桜井玲香さんがWキャストで出演(11月9日まで)。

 この方と舞台の感想をやり取りさせていただくうちに、ほんの少しだけれども、自分が舞台を観に行ったことの意味がわかり始めました。

 そして、よりこの舞台を理解し、考えを深めていくために、今回はuni_uniさんにここで「生きてるものはいないのか」について語っていただきます。

「不条理劇とは?」

 「不条理劇」。僕は初めて聞く言葉でした。予備知識として、まず『不条理劇』の意味をuni_uniさんにわかり易く教えていただきたいと思います。

 uni_uniさん:まず、はじめに「条理」という言葉についてです。意味は「道理」とほぼ同じと思ってもらえると良いと思います。つまり「不条理」とは、道理から外れたいろいろな現象や、人間の常識から外れたことを表します。
 『不条理劇』はそういった道理から外れた現象や、人間の行う非常識な行動などが起こった時に、その劇の登場人物や世界がどう変化していくのか?を描くことになります。「何故?」という理由・原因を探るストーリーとは別物と考えてください。

「生きてるものはいないのか」

 「不条理劇」の意味を確認したところで本題に入ります。今回の舞台「生きてるものはいないのか」について、uni_uniさんの解釈を教えていただきます。

 最初に役柄の注釈を載せておきます。

 ナナ:若月佑美さん。女子大生。
 マッチ:ナナの彼氏。
 カツオ:マッチの友人。ナナに想いを寄せるオタク風な男性。
 サカナ博士:仲が良すぎる男二人組のうちの一人。
 ショージ:男性アイドル。
 コウイチ、マキ:義理の兄妹
 リョウコ、ヨネダ:喫茶店のカップル。
 ミキ:川口春奈さん(主演)。
 ケイスケ:喫茶店の店員。

 以下uni_uniさんに書いていただきました。


 この作品は『不条理劇』なので、「あるがままの舞台での出来事をどう受け止めるか?」が大事かなと思います。この作品の基本は「日常の中に、突然『死』が入り込んでくる。さらにその『死』が身近になったことで、人はどう変化するのか」がステージ上で演じられます。私たち観客はその出来事を第三者として、『俯瞰的に観察』することになります。

 芝居はステージ上での日常の風景から始まり、いきなり若月さん演じるナナに死が訪れるところから、「死が身近な世界」がスタートします。周りの人間は『突然訪れる死』に驚き、受け止められず、怖がります。ところが、死を何度も目撃するにつれ、やがて死んでいくことは普通なのだと思い始めます。そして自分の死の間際にあがき、カッコ良い死に方もできないまま、その姿をさらしていくのです。この過程を2時間弱で描いていきます。

 死が身近になる様子は、たとえばマッチの変化から伺えます。最初、彼女のナナが死んだときにパニックを起こしますが、友人のカツオの死のときには、すでに自分の周りの人間の死に慣れているので、驚きこそ見せますが悲しみが持続していません。マッチが死に慣れて、最終的に考えることは、自分が死ぬときは目を閉じて死のうということでした。自分が死ぬ時のことまで考えるようになるわけです。

 ところが、残酷にも彼らは死に方さえ選ぶことができないという現実が突きつけられます。アイドルのショージは、お尻からものが出そうになるという、アイドルらしからぬ無様な最期を遂げます。コウイチは義理の妹マキと二人で死ぬ瞬間を過ごしたいが、空気の読めないサカナ博士に邪魔をされた挙句に、考えていた遺言もまともに言えずに死んでいきます。リョウコは恋人ヨネダが死んで、寄り添いたいと思いながら、予期せぬ形でミキに殺されてしまいます。
 死に方すら思い通りにならない、そのカッコ悪さも含めて、「死」は突然の出来事で、そこに当人の意思が介在しないものということを表現しているんでしょう。

 最初に訪れるナナの死は、周りの人間にとって悲劇として始まりますが、死者が増えるとその日常と化した死に方が、滑稽にすらなってしまいます。最後のミキの死に至っては単なる“出来事”でしかない。

 そして、ラストシーン、最後にケイスケだけが生き残り、舞台が暗転するラストシーンです。
 喫茶店の店員であるケイスケは、この舞台の世界を描く中で、我々傍観者に近い役柄です。人の死に立ち会ってはいるけど、「人」にはあまり関わっていないという意味で。途中、ミキとつかず離れずで歩くのは、ごく普通に昔から人との関わりをケイスケが求めていることを表していました。ただミキが死んだことで、自分の周りには死だけが残ります。なので、あの最後の暗転は、ケイスケが自分の周りの人とのつながりを求めて、この芝居のタイトルを発していると考えるのが妥当かなと、『生きてるものはいないのか』。
 生き残ったケイスケは、「生きている人を探す」ことが日常になるのです。

 「何故、死んだのか?」はあえて言うなら、人は必ず死ぬものだからだと思います。「何故、今なのか?」は、たまたまその時そういう出来事が起こったからという受け止め方でよいと思います。現実に起こった自然災害の場合(例えば御嶽山の災害)は、「突然」という偶発性は同じでも、「死」ではなく「生」の方が大事なので、「生きていた時のドラマ」に焦点が当てられます。報道などでは被害者の生前の姿が報道されています。
 しかし、この芝居では、そういった「生」のドラマにはまったく興味がなく、「死」という人生の最後の出来事を次々と見せて、「死」は「生」の先にあって、日常とかけ離れたものではないことを観客に見せています。作・演出の前田司郎さんの言葉にもありますが、人は「死を普段忘れている」のです。舞台冒頭での列車事故ですら、登場人物にとっては他人事で始まっています。でも最後に死は目の前にあるものに変わり、その死の意味も変質していきます。マルクスの言葉にある「歴史が繰り返すとしたら、一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」という言葉が連想されます。

 「死」というものですら、人間は日常の中に取り込むことができて、その感覚に慣れてしまう……。そういう日常の変遷として起こりうる一つの可能性をこの芝居は見せてくれていると思います。
 難しいなあと思うのは、この芝居には「感情を見せる」場面はあっても、「何故、そうなるのか?」を提示していないこと。観客もこの出来事を『観察している位置づけ』なので、いろいろな情報を推測しつつ、死者が増えるたびに、死が身近となってしまった世界での、日常の変遷を受け止めるしかないのです。親切ではないし、受け手の感覚も様々だと思います。

 「何故、死んだのか?」を探る演劇もあれば、「人はどう変質していくのか?」を見せる演劇もある。今回の舞台は、そういう多様性の中の一つとしてとらえるものだと思います。

(以上、uni_uniさん)

「最後に」

 ここまで読んでいただいたみなさん、いかがだったでしょうか? 僕自身はuni_uniさんの解釈に非常に納得させられました。カタルシスが得られたようで、頭の中のもやもやがすっきりしました。そしてやはり、自分自身は井の中の蛙であることを実感するのです。

 『不条理劇』という確立されたジャンルがあるということを今回知ることが出来ました。井戸の外の世界が広すぎて、迷子になっていた僕を、一緒に記事を書くことで導いてくれたuni_uniさんにこの場を借りてお礼申し上げます。

 最後に「生きてるものはいないのか」に出演した若月さんのブログを提示することで、この記事を締めたいと思います。

 10月15日の若月さんのブログ「また一つ。」。このブログに「ちょっと今からわけわからない文を書きます。ごめんね。笑」で始まる文章があります。若月さんはこの文章の後に、「なんて、訳の分からない事を並べていますが、つまり明日始まる舞台。」と説明しています。

 実際に舞台を観て、この文章を読んだ時、皆さんは若月さんの文章をどのように解釈しますか?

 ここまで考えてみて初めて、舞台「生きてるものはいないのか」が終幕するんだろうと思っています。

筆者プロフィール

Okabe
ワインをこよなく愛するワインヲタクです。日本ソムリエ協会シニアワインエキスパートの資格を持ちます。乃木坂との出会いは「ホップステップからのホイップ」でした。ファン目線での記事を書いていきたいと思います。(ツイッター「Okabe⊿ジャーナル」https://twitter.com/aufhebenwriter

COMMENT

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  1. 普通の舞台だと、いかに演じている役をいい意味でも悪い意味でも魅力的に演じることが求められるのに対して、不条理劇では、普遍性が求められ、演者は顔を持たないことが求められることになると思います(不条理劇が脚本家や演出家の意図を伝えるためのものであり、演者はいわばその道具になる。)。
    そういった意味で、今回の若様の舞台は一アイドルとしての顔を捨てて演じる(見ている側が自分と置き換えることが可能な存在として演じる)ことが求められるため、役として難しいのだと思います。

    ある種脚本家と演出家の意図だけがそこに存在し、演者の個性は消えるため、純粋に演者のファンであってその演者の色が付いた演技を楽しみたい人にとっては、難解になるのだと思います。

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