去年10月、橋本奈々未は、自身の誕生日である2月20日を目処に、乃木坂46から卒業することを発表した。乃木坂46の初期からずっと第一線で活躍し続けてきた彼女が果たした役割はとても大きいだろう。さらに橋本奈々未自身も、その聡明さ、あるいは知性によって高く評価されてきた。「アイドルらしくない」と言われる佇まいを見せる橋本奈々未は、その特異な存在感で独自の地位を作り上げたと言っていいのではないかと思う。
しかし彼女は、自分の捉えられ方について困惑する機会が多かったという。
『勉強ができると思われているかもしれないけど、若いときからアイドルを始めた方たちは、仕事でなかなか高校に通えないけど、私は普通に授業に出られていただけ。クールと言われているけど、感情の起伏が激しくて、楽屋ではひとりですごい騒いでいますから。
一番抜け出したいのは「できて当たり前」「しっかり者」というイメージ。本当はダメ人間なんですよ』
(「日経エンタテインメント! アイドルSpecial2015」/日経BP社・2014年12月2日発売)
橋本奈々未を「ダメ人間」だと捉えている人間はいないだろう。あまりにも、橋本奈々未のイメージからかけ離れている。何でもこなし、自分なりの考え方を持ち、常に知性を感じさせる彼女には、あまりにも似つかわしくない。とはいえ僕の中には、自己認識と見られ方に差があると感じているのならその差を埋める努力をしてあげたい、という気持ちもある。
『ただ私は、見た目と中身が、だいぶ違うんですよね。どうしても見た目先行で色々なことが進んじゃうんですけど、あまりイメージと直結させないでほしいなとは思います。クールって言われることが多いけど、中身は全くクールではないんですよ』
(「日経エンタテインメント! アイドルSpecial2016」/日経BP社・2015年12月3日発売)
また橋本奈々未は、こんな風にも語っている。
『映画(筆者注:2014年公開『超能力研究部の3人』)で一緒になったいくちゃん(生田絵梨花)と(秋元)真夏と「アイドルと女優の違い」を話したときに思ったんです。アイドルは自分の色を出して分かってもらうことが仕事。だけど、女優さんは色を付けないのが仕事で、役によって色を付けるから無色でいなきゃいけないんだろうなって。
アイドルの場合はグループの中でキャラができて、それがずっと継続されてしまう。乃木坂46の中にいる橋本奈々未としてはいいけど、それが私の本質だと思われるのはどうなんだろうなって』
(前出「日経エンタテインメント! アイドルSpecial2015」)
今後、橋本奈々未は乃木坂46を卒業し、芸能界を離れた普通の社会で生きていく。今彼女は、「乃木坂46の中にいる橋本奈々未」として捉えられている。そして、乃木坂46の卒業と同時に芸能界を去る決断をした橋本奈々未は、「乃木坂46の中にいる橋本奈々未」という捉えられ方から脱する術をほとんど持たないと言っていいだろう。
僕の文章がその役を担えるとは到底思えないが、橋本奈々未を、自身がそう望むように「ダメ人間」というキーワードで切り取ってみたい。今回の記事はそんな動機で書かれている。
『「できて当たり前」みたいに見られても、私は特に何が秀でているわけでもないんですよ。むしろ、できてないことのほうが多いので、「損してるな」と思うときも正直あります。イメージから外れたことをすると「そういうことをするのはおかしい」と言われることもあるんです。何も考えずに書いたブログが深読みされることもあるし、自由が狭まっているのかなと感じることが増えました』
(前出「日経エンタテインメント! アイドルSpecial2015」)
繰り返すが、橋本奈々未は自己認識と見られ方の間にギャップを感じていた。僕自身も、冒頭で書いたように、橋本奈々未は何でも出来るし、知性を放つ人間だとずっと感じていた。僕は乃木坂46の中では齋藤飛鳥がダントツで好きだが、齋藤飛鳥のインタビュー目当てで買った雑誌の中に他のメンバーの記事があれば読む。その中で、価値観や考え方や言葉のセレクトにおいて最も琴線に触れるのが橋本奈々未だ。アイドルとは思えない逸材だ、とずっと思ってきた。だから僕自身も、橋本奈々未を「ダメ人間」だと思ったことなどなかった。
何故そこにギャップが生まれるのか。考えた僕は、こんな結論に達した。
「橋本奈々未は、『鎧』だと思って身につけたものを『武器』だと捉えられているのではないか」と。
橋本奈々未は自分自身を、こんな風に捉えている。
(とあるMVについてのコメントで)
『私もこのキャラもコミュ障なので通ずるものがありました』
(「MdN EXTRA Vol.3 乃木坂46 映像の世界」/エムディエヌコーポレーション・2015年10月15日発売)
『私、もともと自分に自信がないタイプなんですね』
(「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46」Vol.1/KADOKAWA・2016年4月2日発売)
『めちゃくちゃズボラで気分屋だから、それを理解してもなおグイグイ来てくれる人や、私と同じズボラな人としか仲良くなれない』
(「乃木坂46×プレイボーイ2016」/集英社/2016年11月24日発売)
『10代の頃は、人と目を合わせられなくてバイトの面接で落ちまくりました。強くなりましたね』
(「日経エンタテインメント! アイドルSpecial2017」/日経BP社・2016年12月31日発売)
乃木坂46にはこういう、自分を低く捉えるメンバーが多いが、橋本奈々未もそうであるようだ。ズボラで自信がないコミュ障。そういう自分を指して「ダメ人間」だと評しているのだろう。
そして、そんな「ダメ人間」だからこそ身についただろう力がある。それが「観察力」と「言語化力」だ。
「ダメ人間」であっても、何とか生きていかなければいけない。そういう時どうするかは、人それぞれ様々だろう。無理して「デキる人間」という仮面を被る者もいるかもしれないし、引きこもってしまう者もいるかもしれない。橋本奈々未は、「観察する」「言語化する」という方法で「ダメ人間」なりに生きていこうとした、というのが僕の仮説だ。根拠はないのだが、そう考えないと、「橋本奈々未が自身をダメ人間だと感じている」という事実と、「橋本奈々未が他者から圧倒的な知性を感じさせる」という事実が結びつかないと僕は感じる。
まず橋本奈々未は、自分自身を観察した。どんな時に自分はうまくいかないのか、どういう条件で自分は失敗するのか、何が原因で自分の悪い部分が表に出てしまうのか、逆に自分が良く出来るのはどういう時なのか…。彼女は子供の頃から、こんな思考を繰り返していたのではないか。自分が「ダメ人間」であるという自覚があるからこそ、それでもなんとか生きていくために徹底的に自己分析する。自分のことを出来る限り理解し、言葉で捉えることで、自分の弱い部分・ダメな部分を捉え、先回りしてそこを保護する。
そう、橋本奈々未にとって「観察力」と「言語化力」は、ある種の鎧として機能していたと思うのだ。
自分には良いところなど少ないと感じていた彼女は、高い観察力によって自分の弱さをあらかじめ見極めておく。そしてその弱さをきちんと「言葉で捉える」ことによって、その場所の防御を高めておく。言語化するというのはある意味で「近似する」というのと同じだ。多少のズレがあっても、その弱さをきちんと言葉で捉えることで近似し、分かりやすい形で保持しておく。「体調が悪い」だけでは対処の仕方は無限にあるが、「風邪」「インフルエンザ」「気管支炎」などの病名がつけば対処の仕方がはっきりする。同じように言語化によって自分自身をよりシンプルに捉え、対処しやすくし、その場所の防御を高めやすくする。
そんな風にして彼女はなんとか生きてきたのではないか。
しかし、当然と言えば当然ではあるのだが、その高い「観察力」と鋭い「言語化力」は、他者に向けられればもの凄く強い武器になる。
乃木坂46に入る以前の橋本奈々未がどんな人間だったのか、僕には知る由もない。しかし想像力を膨らませれば、乃木坂46に入ってからその武器が顕在化したと考えることも出来る。それまでは、他者に対して観察力が発揮されても、それを言語化して披瀝する場がなかった。普段のおしゃべりの中で話すようなことでもないし、コミュ障だと自分で言っている橋本奈々未は、そこまで交友関係が広かったわけでもないのだろう。しかしアイドルになり、しかも乃木坂46のメインとして一線で活躍する中で、それまでの人生で問われることのなかった質問を投げかけられるようになった。それらに対して「観察力」と「言語化力」を発揮することで、それらが始めて武器として表に出てくるようになったのではないか。そんな風に僕は考える。
橋本奈々未の「メンバー評」は、とても面白い。
『いまの話(筆者注:松村沙友理が自身をKYだと語る話)を聞いて思うのは、きっとさゆりんは自分があるからそうなるんだろうなって。自分がおもしろいと思うことだったり、正しいことやまちがってることが自分の中でちゃんと整理がついてるんだよ。その基準で周りで起こることを見て、自分の基準で笑えたり怒れたりするから、結果的に「合わない」と思うことが多いのかもしれない』
(「BRODY」2016年10月号/白夜書房・2016年8月23日発売)
橋本奈々未は、他者の本質を捉え、それを別の人間でも理解できる言葉にまとめ上げる能力が卓越している。それは、「ダメ人間」であるが故に自分自身に向け続けてきた「観察力」と「言語化力」が他者に発揮されることによって実現しているのだと感じる。
西野七瀬についても、こんなことを言っている。
『西野は「許容範囲が広い」人ですね。人に何かされて「いいよ」っていう意味じゃなくて、例えばですけど、寒くなってきた秋口におじさんが半ソデで交通整理をしているとすると、私だったら「寒そうだな」くらいで終わるんですけど、西野の場合は「あのおじさん可愛い」って感じになるんですよ。「一生懸命、棒を振ってんねんで。可愛いなぁ」みたいな。実際にそういうことがあったわけじゃないんですけど。普通の人だったら、その物ごとに対して特別な感情を抱かなかったり、興味を持たないだろうなっていうことにも、わりと感情を持つというか…。そういう「許容範囲の広さ」が人気なんだと思います』
(「BUBKA」2016年4月号/白夜書房・2016年2月29日発売)
西野七瀬を「許容範囲が広い人」と捉え、瞬時に例え話も作り出す能力は、やはり図抜けている。
その「観察力」と「言語化力」は、何も人にだけ向けられているわけではない。
『でも、何も印象に残らない作品よりは、今でも「あのシーンはなんだったんだ」と議論される作品のほうが、アイドルのMVとしては成功だったんじゃないかと思います』
(「MdN」2015年4月号/エムディエヌコーポレーション・2015年3月6日発売)
『私が苦手な部分は誰かの得意ジャンルだったりするので。集団の強みはそこだと思っています』
(前出「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46」Vol.1)
引用したのは乃木坂46に対するものだけだが、橋本奈々未の「観察力」と「言語化力」は、事象にも概念にも発揮される。どんな物事に対しても高い観察力を発揮し、それを的確に言語化していく力は、当然圧倒的な知性を感じさせる。多くの人が持つ橋本奈々未に対するイメージは、こんな風に作り上げられたのだろうと思う。
しかし、だからこそ橋本奈々未はギャップを感じることになる。彼女にとって「観察力」と「言語化力」は、「ダメ人間」である自分を生きさせるための手段でしかなかった。しかしそれが結果的に、自分自身に知性というイメージをもたらすことになった。その違和感を、橋本奈々未は次第に感じるようになっていったのだろう。
『私はもともと普通にパッと発言したことが、深読みされやすい立ち位置にいるらしいので、かなり発言には気をつけてきたんですけど』
(前出「乃木坂46×プレイボーイ2016」)
『自分が思ってる自分が「自分じゃない」って言われることがあるんですよ。「ななみんってこうだよね」っていうイメージがひとり歩きしちゃうんです。あるひとつのことに周りから見た自分のイメージが付け加えられていって、自分が思った通りにやったことが「それはちょっとらしくない」って言われてしまったり。そうすると「あれ?私って本当はそうだったのかな?」って(笑)。どこからが本当の自分の意志でやっていて、どこまでが周りに求められてやっていることなのか、たまにその境界線がわからなくなることはありますね。その積み重ねによって自分が変わっていってしまうのかもしれないとは感じていて。自分の価値観は大切にしたいけど、それが知らずしらずのうちに外からの力で変わっていくこともあるのかもしれない…うーん、難しいです(笑)』
(前出「BRODY」2016年10月号)
こういう怖さは、少しは理解できる。僕も、当然橋本奈々未とは比べ物にはならないが、似たようなことを感じることがある。他者からの見られ方、評価のされ方に怖くなることがある。僕は意識的に、自分の評価を下げるような行動を取ってバランスを取ろうとする。しかし、今や国民的アイドルグループの一員であり、その中でも人気の高い彼女は、外からの自分の評価を自己認識に近づけるような行為を考えなしにすることは許されない。その窮屈さみたいなものも彼女を卒業へと向かわせたのではないか。インタビューの端々からそんなことを感じることがあった。
『橋本奈々未=ダメ人間』という捉え方〈後編〉
とても面白く、良い文章でした。
ありがとうございます!そう言っていただけると嬉しいです~
自分は、橋本ななみのファンで、彼女がどんな人間なのか知ることができて良かったです。
ありがとうございました。(^O^)
コメントありがとうございます!あくまで僕の中での想像の橋本奈々未ですので、話半分で受け取ってくださいね(笑)
非常に素敵な記事でした。
ありがとうございます!良い風に読んでもらえて嬉しいです~