2015年7月10日。僕は乃木坂46のファンになった。その日観た映画「悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46」がきっかけだった。乃木坂46の結成からの軌跡を描いたドキュメンタリー映画だ。
アイドルには一切興味のなかった僕の中で、乃木坂46は大きな存在になっていった。最初は、乃木坂46というグループ全体を好きになった。箱推し、という言葉さえ知らないままだった。乃木坂46を追いかける中で、乃木坂46が載っている雑誌をよく買うようになった。「乃木坂46×プレイボーイ2015」という雑誌に載っている、ちょっとしたインタビューを読んだ瞬間に、乃木坂46の中でも、僕は齋藤飛鳥というメンバーが好きになった。
齋藤飛鳥はその内側に言葉が溢れている人間だ。僕は勝手に、そう捉えている。「本讀乙女(ほんよみおとめ)」という、読書をテーマにしたブックリスタのウェブ企画に彼女も登場しているが、言葉に惹かれる傾向がある僕にとってこれは、非常に興味深い内容だった。
『読み終わった後にモヤモヤする感じの作品が好きです
現実ってスッキリすることがあんまりないなと思っているから』
僕のイメージの中で齋藤飛鳥というのは、全体的にネガティブである乃木坂46というグループの中でもトップクラスにネガティブなメンバーだ。僕が乃木坂46に関して触れたことがあるのは、「悲しみの忘れ方」「乃木坂46物語(篠本634)」「乃木坂って、どこ?(乃木坂工事中)」「公式ブログ」「いくつかの雑誌」くらいしかなく、正直その中で齋藤飛鳥に関しての記述や発言は多くない。とはいえ、断片的な情報から僕はそういう印象を受ける。
「現実ってスッキリすることがあんまりないなと思っているから」という考え方は、その一つの現れだろうと感じる。同じ経験をしても、それぞれに対する人間の考え方・感じ方は全然違う。齋藤飛鳥は、現実の様々な出来事に対して、低い目線で接しているのだろう。僕も基本的に同じような感覚で生きているので、その感覚はとても良くわかる。
そのことがさらに如実に浮き出ている発言がある。
『なんか、人間って期待していたものから裏切られた時にストレスが結構かかるらしいんですよ。そんなことは絶対に嫌だし、もともと17年間生きてきた中で、あんまり世の中に期待しないっていう生き方が身に付いていて(笑)。』
僕は齋藤飛鳥のこういうところがとても好きだ。
僕も、基本的には、人生にはまるで期待していない。自分には常に悪いことが起こると思っているし、何か良いことがあってもそれをすぐには信じられない。それは、齋藤飛鳥が言うように、期待したあと裏切られた場合の落差に、自分が耐えられないと思っているからだ。
僕は中学生の頃だったと思うのだけど、「世界中の人間から嫌われている」と思うことに決めた。たぶん当時の僕は、「あの人には好かれてるだろうか。あの人からは嫌われているかもしれない」と、周囲との人間関係にビクビクしていたのだろうと思う。その状態が、僕は嫌だった。だったらいっそ、世界中のすべての人間から嫌われていると思っておけば、そんな悩みからは解放されるだろうな、と思ったのだ。実際に今も、自分のことを誰かが好きになるわけはないだろう、と思っているし、そういう状況があった場合には猜疑心(さいぎしん)が働いてしまう。んなわけねぇだろ、と。自分をそういう状態、つまり「世界中の人間から嫌われているはずの自分」というものを維持するために、周囲から受け入れられないような価値観をまとって生きていこう、という歪んだ考え方も出てくる。自分でも狂っているなと思うのだけど、僕自身はそういう生き方の方が楽だと思っているから始末が悪い。
『でも、その方がいっぱい幸せを見つけやすいので、私としてはその生き方でいいんですけど。あんまり万人受けしないっていうのは分かってます(笑)。』
少し違う話をするが、以前知人と、「バカな舌を持っていて得だ」という話をしたことがある。僕もその知人も、「普通の味の食べ物」と「美味い食べ物」と「もの凄く美味い食べ物」の区別がつけられない人間だ。でもそういう場合、何を食べても美味しいって思えるから得だ、と二人で話していた。齋藤飛鳥や僕の生き方も、その感覚に近いだろう。悪い状態を想定している方が、結果的に日常の中に良いものが増えていく可能性が高い。些細な日常であっても、基本的な想定がとても低いので、その中で普通の人には捉えられない良さを感じられる可能性がある。恐らく齋藤飛鳥も、そういう意味で「その方がいっぱい幸せを見つけやすい」と言っているのだろうと思う。
しかしそれにしても、齋藤飛鳥は凄いなと思う。考え方としては齋藤飛鳥と僕は近いと思う。しかし彼女は、僕とはまるで違う背景を持った女の子だ。本人の自覚がどうかは知らないが、齋藤飛鳥は凄く可愛い女の子だと思う。それは、数多くの女性誌のモデルに起用されている、という客観的な事実からも判断できる。しかも、AKB48さえも追い越そうとしている、今一番勢いのあるアイドルグループである乃木坂46に所属し、その中でも最近ぐんぐん実力と人気を獲得してきているメンバーだ。さらに齋藤飛鳥は、まだ17歳という若さなのだ。
これだけの背景の中で、これだけのネガティブな価値観を維持できているというのは、僕からすれば驚異的だと思う。容姿やアイドルであることを除いたとしても、17歳という年齢に驚く。僕は17歳の頃、まださすがにここまで自分を客観視出来ていなかったはずだ。僕が今のような自分の価値観を、きちんと言葉にすることが出来るようになったのは、25歳以降ではないかと思う。それまでは、色んなことに馴染めずに、でもどうしてそうなのか自分でもイマイチ把握できないまま、うだうだもがいていたような気がする。何故17歳という若さで、これほどの諦念を身につけ、さらに外的な要因に揺さぶられないでいられるのか、しかもそれを自らの言葉で語ることが出来るのか。それを支える齋藤飛鳥という人間の背骨の部分に非常に興味がある。
読書に向かう時にも、この考え方は強く影響を与える。
『自分に何かいいことがあったら、
それ相応のダークさの本を読むようにしています』
『良いことがあると悪いことがあるじゃないですか、必ず。だから、自分にすごい良いことがあった時に怖くなっちゃうんですよ。次はどんな悪いことがあるんだろうって。だからダークなものを読んで、精神のバランスを保つんです(笑)。』
本を読む人間には、様々な動機がある。僕の場合は、本を読むことそのものよりは、読んだものに対して何か考えること、そして考えたことを文章にすることに関心がある。だから正直僕の場合、本でなければならない理由はない。映画でもスポーツでもなんでもいいのだが、考え文章を書くというのに最も適しているのは読書だと思うので、今日までずっと続いているのだろう。
齋藤飛鳥の場合、本を読むという行為には、「精神のバランスを保つ」という目的がある。良いことがあった時に、浮ついた自分を停留させる錨(いかり)のような役割を求めている部分があるのだろう。そういう意味で齋藤飛鳥の人生と読書は、強く結びついている。別に読書に限らないが、自分の人生と深いところで繋がっていて、切り離すことが出来ないものを持っている者がどれほどいるだろうか? 特に若い世代は、スマホやゲームなどに多くの時間を割いているはずだ。それらが、「自分の人生と深いところで繋がっていて切り離せない」と感じて続けていることなら、それがどんなものでも人生に強い意味をもたらす活動になるだろうが、若い世代でそれを言葉で説明できる者はほとんどいないだろう。結局、他者の存在がなければ自分の言動を評価することが出来ないのであれば、それがどんなものであっても人生と深く結びつくことはほとんどないだろうと思う。
『伊坂さんの作品って、クズみたいな人間が結構出てくるじゃないですか(笑)。でも、そういう人たちをちゃんと懲らしめてくれるので、そこが結構好きです。』
『私、小学校3、4年生の時にすごい性格が変わったんですよ。すごく暗くなっていったんですけど、そしたら読む本も暗くなっていって(笑)。そしたら読み切れるようになったので、“ああ私はこっちなんだ”と思って、それからはずっと暗くて重い本ばっかり読んでました。』
暗くて重い本ばかり読み、クズみたいな人間の存在も理解している齋藤飛鳥は、結果的に他者の悪意にとても強いと思う。価値観の合う仲間内だけのコミュニケーションで完結している人は、人間の悪意の広がりについて無自覚であり無知に近い可能性がある。だからこそ、普段自分が関わっているのとは違う、悪意寄りの価値観に遭遇した時に、思考が止まってしまうのではないかと僕は想像している。齋藤飛鳥は、人間がどこまで悪くなれるか、現実がどこまで悪を内包しているのかについて、物語を通じて深く理解しているだろう。だから、「そんな悪意が、物語の枠を飛び越えて自分の生活圏に飛び込んできた」という事実には強いショックを受けるだろうが、「そういう悪意が世の中に存在しているという事実」そのものには恐らく落胆することはないだろう。
齋藤飛鳥は恐らく、自分は弱い人間だ、と考えていると勝手に想像している。現実に立ち向かう勇気も、悪意を許容する器もないし、自分には何も出来ない、と思うタイプの人間ではないか。しかしそれは、人間が持つ悪意の深さを、その広がりを、物語を通じて知ってしまっているが故の反応だ。それを知らなければ、人は自信満々でいられる。だから僕は、自信満々な人間をそこまで信用していない。それは、ただの無知から生み出されていることが多いはずだと思うからだ。僕自身も、自分自身を弱い人間だと考えている。しかし、それでいいのだとも思っている。その弱さは、ある種の武器だ。「無知からくる自信」とは、また違った形の強さを生み出す源泉かもしれないと、多少前向きなことを考えている。
僕は、人間に対して興味が持てないことが多い。齋藤飛鳥も「あんまり万人受けしないっていうのは分かってます(笑)。」と言っているように、僕も自分の価値観が基本的に他者から受け入れられないことを知っている。世の中の大多数の人間と、僕らのような考え方の人間には、決定的な断絶があるのだ。どちらが悪いわけではないし、僕らの生き方が矯正されなければならないということももちろんない。しかし、この決定的な断絶は、僕に、他者との関わりを躊躇させる。僕は、他者と分かり得ないことは当然と考えているが(恐らく齋藤飛鳥もそうだろうと思う)、世の中の大多数の人間は、人は話せばわかりあえるときっと考えているはずで、だからこそ自分では理解の届かない価値観を否定したり拒絶したりする。相手にそういう状態を強いるのは、僕としてもめんどくさいし、だったら強く他者と関わることもないか、と思ってしまうのだ。
しかし、本当にごく稀に、ああこの人は僕と似たような方向性の価値観を持った人だな、と感じる人が現れる。それは、本当にごく僅かで、僕はこれまでの人生でそういう人間に出会ったのは数えるほどしかいない。僕の中で齋藤飛鳥というのは、そういう一人になった。直接会ったことがない人でこういう感覚を抱いたのは、初めてのことだ。直接会ったことがないから、僕の頭の中の齋藤飛鳥と現実の齋藤飛鳥はまるで違う可能性もある。まあそれならそれでもいい。本当に、同志として語り合える機会があったらなぁ、と願わずにはいられない。先ほども書いたけど、17歳でこれだけの考え方を持っているというその背骨部分を、掘り下げたいなと思う。
(文・黒夜行)
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