KADOKAWAから2ヶ月おきに刊行されている「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46」シリーズの感想では毎回、齋藤飛鳥の連載エッセイ『齋藤飛鳥、書く。』についてあれこれ書いているが、第3回となる今回は、本誌と同じテーマで文章を書くことにする。
齋藤飛鳥はエッセイのテーマを<人>と書いているが、今回のエッセイのテーマは<やさしさ>だ。
『昔、本で読んだ事がある。
人にやさしくできるのは自分を愛しているからだ。
(中略)
しかしどうだろう。
今の世の中、自分のことを愛している人はわんさかいる!ちょっとSNSなんかを覗けばすぐに見つかる!
だけど、やさしいと感じる人は滅多にいない。』
そういう書き出しで始まるこのエッセイは、「やさしさを疑う自分」と「他人にやさしくしない自分」について書いている。
そこで僕も今回は、<やさしさ>について文章を書き、齋藤飛鳥のエッセイに対するアンサーエッセイみたいな立ち位置を目指せればいい、と思っている。
まず、言葉の定義をしたい。
僕は、<やさしさ>というのは大雑把に分けて二種類あると思っている。それを、「やさしさ」と「優しさ」という二種類の表記で書き分ける。
「やさしさ」:その場で伝わるやさしさ
「優しさ」:その場では伝わらないやさしさ
こう言葉を定義した時、齋藤飛鳥はこのエッセイの中で「やさしさ」について書いているのだ、ということはすぐに分かるだろう。
『自慢だが、私の母はやさしい。
家族のことや家族の親しい人に対してはもちろん、赤の他人にまでやさしい。これに関しては自信を持って言える。
困っている人がいたら誰であろうと必ず助けるし、
何の躊躇もなく自分の物を人にあげる。』
齋藤飛鳥は母親のことをこう評す。これはまさに「やさしさ」だろう。その言動が伝わった瞬間に、やさしさも伝わる。母親はそういうタイプであるようだ。そしてそんな母親を引き合いに出して、齋藤飛鳥は、自分が受けるやさしさについて分析していく。
このエッセイを一読して僕は、この文章には「優しさ」の要素が欠けている、と感じた。そしてその理由は、齋藤飛鳥が「優しさ」の体現者だからではないか、と僕は想像した。
やさしさというのは、時に厳しく、時に辛い。怒られたり、無理な挑戦をさせられたり、厳しいことを言われたりすることが、結果的に自分の人生のためになる、ということはよくあることだ。それらは、その言動を受けた瞬間にはやさしく見えない。しかし、時間が経つことで、あれはやさしさだったのだ、と過去を振り返ることが出来るようになる。それが「優しさ」だ。
齋藤飛鳥は決して、「やさしく」振る舞うことが出来なくて悩んでいるわけではない。エッセイの中ではこう書いている。
『私はやさしくありたいと思うが、やさしくなりたいとは思わない。』
色んな解釈が可能な文章だが、「自分のスタイルを保ちながらやさしいと受け取られるならそれでいいが、自分を曲げてまでやさしく振る舞おうとは思わない」という風に僕は読んだ。この受け取り方で正しいとすれば、僕も同感だし、そのままの齋藤飛鳥でいて欲しいと思う。
しかし単純に僕は、齋藤飛鳥は「優しさ」に言及していないな、と感じるのだ。
もちろん、それは当然のことでもある。齋藤飛鳥はこのエッセイの中で、「やさしく振る舞うこと」ではなく、「やさしさを受け取ること」について言及しているのだ。やさしく振る舞われても、その通りには受け取れずに疑ってしまう自分自身について書いている。
齋藤飛鳥は、「やさしく」されたら疑うのだろう。『この人なんでやさしいんだろう… どうして私なんぞにやさしくしてくれるんだろう…何が欲しいのかな…』と書いているように、「やさしく」されるという状態をすんなり受け入れられない自分について書いている。
一方で「優しく」された場合には、きっと疑わないのだろう。何故ならそれは、その場ではやさしい言動には見えないからだ。齋藤飛鳥の中で、引っかかる部分はたぶんない。疑い深い彼女にすれば、「優しく」振る舞われる方が自然で安心できるのだろう。だからこのエッセイの中では「優しさ」について触れられていない。
ただ、齋藤飛鳥がこのエッセイの中で「優しさ」に触れなかった理由はもう一つあると僕は感じている。それが先程も書いたことだが、齋藤飛鳥が「優しさ」の体現者だからなのではないかということだ。
これに関しては、具体的に提示できるような傍証はない。あくまでも、僕の勝手なイメージの話だ。
齋藤飛鳥には、「やさしく」振る舞っているイメージはあまりない。他人にそこまで関心がないということもあるだろうし、後で触れるつもりだが、エッセイの中でも「やさしく」振る舞いたくない理由が書かれている。
しかしそれら以上に大きな要素は、「やさしい」振る舞いに良くないイメージを抱いているからではないか、と僕は想像するのだ。
「BUBUKA 2016年11月号」(白夜書房)に掲載されているインタビューの中で、齋藤飛鳥が秋元真夏に対してこんな風に語っている箇所がある。
『もとから真夏のことは大好きだったんですけど、たぶんどこかで胡散臭さを感じていたんですよ(笑)。でも今回のツアーでそれは消えました。本当にいいひとなんだなって(笑)。』
このインタビューの中で齋藤飛鳥は、秋元真夏の「やさしさ」に触れた経験を様々に語っている。齋藤飛鳥が言う「いいひと」というのは「やさしいひと」という捉え方でそこまで間違ってはいないだろう。
「やさしいひと」を胡散臭いと感じてしまう感覚が齋藤飛鳥の中にあるのだろう。それは、「やさしく」振る舞われた時に相手の言動を疑ってしまうという齋藤飛鳥自身の言葉からも読み取ることが出来る。母親の「やさしさ」を賞賛する彼女だが、それは、ずっと一緒にいて母親のことをきちんと理解しているから、胡散臭いと感じる余地がない、ということだろう。同じことが、秋元真夏に対しても起こったのだろう。
「やさしいひと」を胡散臭く感じる感覚が齋藤飛鳥の中にあるとすれば、自分でも「やさしい」振る舞いを制限することになってしまうだろう。これが齋藤飛鳥に「やさしい」振る舞いをしているイメージがない理由だと僕は考えている。
しかし、齋藤飛鳥がやさしくないわけではない、とも思う。齋藤飛鳥は「優しい」振る舞いをしているということなのだろうと僕は感じるのだ。
別に怒ったり厳しいことを言ったりするような「優しさ」ではないだろう。恐らく、そっとしておいたり、バランスのよい距離を取ったり、辛さの絶頂を外して声を掛けたりというような形で「優しさ」を発揮しているのではないか。完全に僕の妄想だが、僕は齋藤飛鳥に対してはそういう「優しさ」を発揮しているというイメージがある。
そして、自分がそういう風に振る舞っているからこそ、意識的にか無意識的にかは分からないが、このエッセイの中で「優しさ」について触れられていないのではないか、と僕は感じるのだ。
「やさしさ」と「優しさ」は別物で、基本的に両方発揮することは難しいと僕は感じている。僕は、今は「やさしいひと」と思われたいとは思わなくなった。何故なら、「やさしいひと」と思われると「優しい」振る舞いがしにくくなると思うからだ。「やさしい」振る舞いと「優しい」振る舞いなら、出来れば「優しい」振る舞いの出来る人になりたいと僕は思う。いずれにせよ、「やさしさ」を求める人もいれば「優しさ」を求める人もいる。どちらかだけが優れているわけではない。
ここまで書きながら気づいたことがある。齋藤飛鳥はこのエッセイの中で、「やさしさ」と「優しさ」を混同している箇所がある、と。基本的には「やさしさ」についての話だが、「優しさ」について書いている部分があるのではないか、と気づいた。
それが、先程も引用した『私はやさしくありたいと思うが、やさしくなりたいとは思わない。』という一文だ。この文章は以下のように続いていく。
『何故か。
薄っぺらい人間だからだ。
これはあくまでも私の考えだが、私みたいな奴にやさしくされても皆は嬉しく無いと思う。
私のような薄っぺらい人間にやさしくされても
ありがとう。なんて言いたく無いと思う。』
齋藤飛鳥はここまでの部分で、母親の「やさしさ」や、自分が受ける「やさしさ」への疑いなどについて書いてきた。しかし、この「私みたいな薄っぺらい人間にやさしくされても嬉しくない」という話は、「優しさ」についての話ではないかと考えた。
今回のエッセイを読んで一番に感じたことは、この「私みたいな薄っぺらい人間にやさしくされても嬉しくない」という部分をもっと掘り下げて欲しい、ということだった。一読した時、この部分は弱い、と感じたのだ。
何故なら、薄っぺらさとやさしさには関係がないと思うからだ。あくまで僕の感覚だが、「やさしく」振る舞うことは、ある種の挨拶みたいなものだ。挨拶は、薄っぺらであるかどうかに関係なくする。潤滑油みたいなものだ。「やさしく」振る舞うことは、挨拶ほどは容易くはないが、しかしこちらもある種の潤滑油みたいなものであって、薄っぺらかどうかとは関係ないと僕は思う。薄っぺらな人間からされた挨拶でも不快にはならないように、薄っぺらな人間から受けた「やさしさ」に対して特に不快に思うことはないのではないか。
今文章を書いていて、なるほど、齋藤飛鳥がここで指摘していることが「優しさ」についてだとすれば話が通る、と感じた。確かに、こちらも僕の感覚にすぎないが、薄っぺらな人間から「優しく」振る舞われることは、ちょっと不愉快かもしれない。薄っぺらな人間というものを齋藤飛鳥がどう捉えているかにもよるが、「優しく」振る舞う人には、何らかの深い考えがあって欲しい、と感じることは自然かもしれない。
齋藤飛鳥が、自分が受けるやさしさは「やさしさ」、自分が与えるやさしさは「優しさ」と書き分けていたとは思わない。混同しているのだろう。あくまでも僕の解釈が正しければだが。
僕は、齋藤飛鳥は文章を書ける人だと感じているが、まだまだ文章を書くという経験の絶対量が足りない。絶対量が足りない中で人に読んでもらう文章を書かなければならない状況、というのもなかなか大変だろう。しかし、以前にも書いたが、この「別冊カドカワ」の場でどんどん書き、鍛錬を積んで欲しいと思う。このまま文章を書き続ければ、齋藤飛鳥は、人間や社会を独自の目線で鋭く切り取るエッセイストになれるだろうと思う。そういう齋藤飛鳥を楽しみに待ちながら、これからも齋藤飛鳥のエッセイを読みたいと思う。
今回の「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46 vol.3」の感想は、このエッセイについてだけ触れて終了である。個人的には、齋藤飛鳥のエッセイ以外に採り上げたいと思うものはなかった。面白くないわけでは決してないが、僕の関心とは重ならなかった、という感じだ。
「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46」自体はとても良い企画だ。毎回齋藤飛鳥のエッセイが読めるのは言うに及ばず、写真だけではなくインタビューなども多い点や、乃木坂46の歴史や周辺などについて知ることが出来る点も良い。普段は雑誌やテレビなどでそこまで露出がないメンバーが価値観や決意を語る場としても有用だろう。続けられる限り続けて欲しいと思う。
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