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僕が乃木坂46のファンになった日~映画「悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46」~

前回、齋藤飛鳥というメンバーについて、僕が勝手に“同志”を感じる理由について書いた(関連齋藤飛鳥×「本讀乙女」“同志”を感じる深淵の魅力)。

その冒頭で少し触れたが、僕が乃木坂46のファンになったのは、昨年観た映画『悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46』がきっかけだった。
7月10日。忘れられない一日になった。

(※編集注:本稿は、筆者が2015年7月に投稿した記事を再編集したものです)

2015-nogizaka46-site02乃木坂46初のドキュメンタリー映画『悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46』公式サイト 

この映画を観に行った当時僕は、正直、乃木坂46のファンという感じではなかった。「凄いファンの人と比べると自分なんて全然…」みたいな話ではなくて、本当に、乃木坂46のことをよく知らなかった。
僕が乃木坂46のことを知るようになったのは、日曜の深夜にやっていた「乃木坂って、どこ?」(「乃木坂工事中」の前身)という番組を見てからだ。何故この番組を見始めたのか、正直よく覚えていないが、映画を見る半年ぐらい前から、基本的に毎週日曜日には、この番組を見る習慣が出来ていた。

とはいえ、特別誰が好き、ということはなかった。個々のメンバーも、苗字は知ってる、ぐらいのレベルで、顔では判別できるけど、名前は基本的によく分からない、という状態だった(映画を観て、ようやく名前が判別できるようになった)。ファーストアルバムの「透明な色」は買ってよく聞いていたが、どの歌を誰が歌っているのかみたいなこともよく知らなかった。ライブや握手会に行ったこともないし、乃木坂46が出てる他のテレビ番組を見ることもない。僕が乃木坂46に触れる機会は、「乃木坂って、どこ?(今は「乃木坂工事中」)」と「ファーストアルバム」だけしかなかった。

冠番組を見て、アルバムを買ってーーファンと言えなくもないかもしれないけど、でもまあそこまでは行かないレベルじゃないか、というレベルだったと自分では思う。

それでも何故か乃木坂46は、僕にとって気になる存在だった。動いている姿を見るのは「乃木坂って、どこ?」でだけだったので、恐らくこの30分番組を見ることで、乃木坂46という存在が徐々に気になっていったのだろう。でも自分ではどうしてなのかよく分からなかった。

そのままの「弱さ」を肯定している姿

そういう状態で、ドキュメンタリー映画が公開されるタイミングを迎えた。僕はたぶん、自分が何故乃木坂46のことが気になっているのか、その答えが見つかるんじゃないかと思って観に行ったような気がする。

答えは、見つかったような気がする。

『乃木坂って、みんな変わってますからね。ネガティブだし、目立つことが嫌いで、さみしがりや。でも、案外自分を持ってる。そんな子が多い。内気で、弱いんだけど、でも、そういうマイナスな部分を、常に「変えよう」って思ってる子がたくさんいる』

これは、乃木坂46のキャプテンである桜井玲香(キャプテンが桜井だってことも映画を見た時点では知らなかった)の言葉。
なんとなくこれ、分かる気がした。そして僕はたぶん、乃木坂46のそういう部分に惹かれているように思う。

この映画では、様々な人物が登場するが、メインで描かれるのは五人だ。生駒里奈・西野七瀬・白石麻衣・橋本奈々未・生田絵梨花。乃木坂46の中心的な存在であるこの五人が皆、ネガティブな過去を抱えている。

生駒里奈:
『中学の頃は、カーストの最底辺でした。三角形の、ホントこの辺、みたいな。可愛くするのが嫌いで。目立たなければいじめられることもないって思ってました』
『小学校時代には、いい思い出が1ミリもない。ずっと、いじめられていました』
『高校に行きたくないって思って、オーディション受けてみるのもいいかなって思った』

西野七瀬:
『(親に入るように言われた)女子バスを辞めたいって思いました。女子が面倒で。二学期には、もう辞めました』
『[母の言葉]乃木坂46のオーディションの募集の話をすると、七瀬は、見向きもせずに頷きました。取り返しのつかないことをしてしまった。』
『(オーディションに受かって)全然、真剣に考えてなかった』

白石麻衣:
『[母]麻衣は中二から不登校になりました。ある日突然、部屋から出なくなりました。それから麻衣は、部屋にこもり続けました。それから麻衣は、私に対して感情の壁を作るようになりました。何を考えているのか、何を感じているのか、まったく見えませんでした』
『過去の自分は、好きじゃない』
『(オーディションに受かって)落ちたかった。こんなところに、いちゃいけないって思っていた』

橋本奈々未:
『凄くお金のない家で。でもどうしても、東京に出たかったから、全部自分でやるって言って出てきました。奨学金を全部学費に充てて、バイトを掛け持ちしてたんですけど、ホント生活が苦しくて。ある時、コンビニで買ったおにぎりを、バーンって投げちゃったことがあって。』
『東京で生きてくためにどうしたらいいか。そこでふと思ったんです。芸能人になれたら、ロケ弁がもらえるって。』
『(オーディションに受かって)「終わった」と思いました。私には、出来ないって。怖かった』

生田絵梨花:
『ピアノの練習は、義務感しかなかったです。周りの子達はみんな遊んでるのに、どうして私だけ、おんなじ箇所を、ずっと練習してなきゃいけないんだろうって』
『[母]絵梨花は、中学受験に失敗しました。まだ小学生でしたけど、「こんな紙切れで一生を決められるのは嫌」と、はっきり言っていました』
『[母](オーディションに受かって)心の底から喜んでいる感じではありませんでした』

程度の差こそあれ、皆、何かしらネガティブな感情を抱えている。もちろんそんなもの、誰に聞いたって一つや二つ、当然あるものなのかもしれない。だから、「ネガティブさを抱えていること」そのものに惹かれたというだけではきっとない。彼女たちは、そんな自分の弱さを、基本的に隠そうとしていない感じがして、たぶんそこがいいのだと思う。

週に一回の、たった30分の番組を見ているだけで分かることなんてほとんどないだろうけど、でも僕はきっと、彼女たちの「そのままの弱さを肯定している姿」を見続けていたのだと思う。キャラクターとして弱さを武器にするわけでもなく、弱い部分を無理に隠すでもなく、あるいは弱さを個性と開き直るでもなく、彼女たちは「弱さ」をそのまま出す。人前に出る仕事をする中で、「弱さをさらけ出すこと」は、怖いことじゃないかと思う。どうしても隠したくなったり、無理をしたり、諦めたり、そういう部分が出てしまうように思う。しかし、なんとなく、乃木坂46のメンバーからは、そういう感じを受けない。「弱い」ことが、当然の一つの性質であるように、自然と、無理なく表に出ているような印象を受ける。

「公式ライバル」であるが故の劣等感

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2011年 デビュー前の乃木坂46 ©乃木坂46LLC

乃木坂46というグループが、僕が感じる通り「弱さが自然に表向きになっているグループ」だとして、どうしてそうなったのか、僕なりに考えたことが二つある。

一つは、メンバーにそういう人間が多かった、という理由だ。元々そういうグループを作ろうとして集めたのか、たまたまそうなったのかは分からない。しかしそれは、結果的には彼女たちにとって、とても良かったのではないかと思う。「弱さ」を出せる場がある、というのは、一つの救いではないかと思う。元々そういうメンバーが多かったので、自然とグループ全体もそういう雰囲気になっていったのかもしれない。

そしてもう一つ。これは、このドキュメンタリー映画を見ながらずっと考えていたことだ。
乃木坂46の「AKB48の公式ライバル」という立ち位置だ。

生駒里奈:
『(AKB48のライブで)私達には、超えなければならない目標があります。それは、AKB48”さん”です』

生田絵梨花:
『”ライバル”なんて、自分たちの口からはとても言えない』

白石麻衣:
『AKB48の公式ライバルという肩書きを取りたい』

僕は、アイドル全般にまるで詳しくない。「妹分」みたいな立ち位置はこれまでもあったかもしれないが、アイドル同士で「公式ライバル」という関係になることは、なかなかないのではないかと思う。

「妹分」みたいな立ち位置であれば、そこまで気負うことも多くはないだろう。しかし、「公式ライバル」というのは、重い。乃木坂46が結成された時点で(恐らく)AKB48はもうかなりの人気を博していただろう。一方で、乃木坂46は、結成されたばかりの、本人たちの言葉を借りれば『素人の』集団だ。それなのに、結成した当初から、AKB48という、果てしのない(ように見える)存在を突きつけられる。

これは、乃木坂46というグループ全体のアイデンティティに、かなり大きな影響を与えたはずだと思う。それは、「強烈な劣等感からスタートする」ということだ。普通のアイドルであれば、結成してすぐ「AKB48」をライバルだと思う必要はない。しかし、乃木坂46は、結成した瞬間から「AKB48」という巨大な存在を意識させられる。乃木坂46として活動し、アイドルというものがどういうものなのか分かれば分かるほど、AKB48という存在の大きさも益々分かるようになっていく。しかも、グループのアイデンティティとして、無視できない存在なのだ。僕自身、物凄くネガティブなので分かるのだけど、そういう巨大な存在に直面すると、猛烈な劣等感に囚われる。恐らく、乃木坂46のメンバーもそうだったのではないかと思う。

この2点が、乃木坂46というグループ全体や、あるいは個々のメンバーのアイデンティティに大きな影響を与えたのではないか。映画を見ながら、僕はそんなことを考えていた。そして、AKB48という存在がいる限り、一生拭えないかもしれない強烈な劣等感にさらされながら、自分のネガティブな感情が焼き千切れそうになりながら、それでもどうにか踏ん張って前に進んでいこうとするその気持ちのありようを、僕は勝手に「乃木坂って、どこ?」という番組から感じたのかもしれない。

生駒里奈:
『(あるメンバーに向かって)何もできることがなかったら、ここにはいないでしょ』
『センターに選ばれなかった時、初めて「悔しい」って思いました』
『真のプロになるか、終わるか、どっちかだと思うんです』

西野七瀬:
『それまでは、気付かなかったんですよ。でも、帰って来たばかりの(秋元)真夏と交代させられて、初めて自分が負けず嫌いなんだって気づきました』
『今までは、失敗するのが怖いっていうか、挑戦を諦めちゃってたけど、今は、挑戦した結果、良い時も悪い時もあるけど、結果が出るのがいいなって思えるようになった』
『私は、人見知りだし、よく泣くけど、そんな私のことを応援してくれる家族とか友達のために、精一杯頑張ります』

橋本奈々未:
『ずっと、一般人に戻りたいって思ってました。ひと目を気にしないで友達と遊ぶとか、結婚とか子供とか。でも、こういう仕事をしてると、自分に投資することが多いんです。もっと綺麗になりたいとか、もっと上手くなりたいとか。ずっと上を見てる。そういうお仕事をさせてもらってて、これ以上楽しい仕事ってちょっとないんじゃないかって、そんな風に思っちゃったんです』

アイドルというのは、身も蓋もない言い方をすれば”ビジネス”だ。お金を払う価値のあるものを提供し、お金を払ってもらう。そんな風にして成り立っている。アイドルを「お金を払う価値のあるもの」にまとめ上げるのも大人なら、お金を払うのも大人だ(まあ子供もいるかもしれないけど)。
その過程で、大人は、まだ若い少女たちに、過酷なものを背負わせる。

”アイドル”は、こんなに窮屈なものだっただろうか、と思う。この映画を観て、彼女たちの努力には胸を打たれたし、自分もちゃんと頑張ろうという気持ちも強く感じた。しかしその一方で、本当に、こんなにしんどくなきゃいけないのか、という想いもずっとあった。ここまでやらなければ、もう僕たちは”感動”出来なくなっているのか?と。それを”感動”という言葉で切り取るには、あまりにも彼女たちが背負わされているものが大きすぎないか、と。高校野球にどうしても感じてしまうような理不尽さが、もう”アイドル”という存在には内包されてしまって、そんな時代にアイドルであり続けることの大変さを、少し感じられたような気がした。

勝者には光が当たる。光が当たれば、それまでの苦労も、オセロのように一瞬で明るく輝く。しかし当然、敗者もいる。普通の努力さえしなかった敗者もいるだろうが、どれだけ努力を重ねても、様々な要因で敗者に留まるしかなかった者もいることだろう。当然ではあるが、そういうメンバーのことまでは映画の中で取り上げられることはない。この映画はとても良かったが、僕ら大人が無意識の内に課してしまっている枷や重荷みたいなものまで見えてしまったようで、そこはまだうまく消化しきれていない。

生駒里奈と西野七瀬

映画は、2011年の乃木坂46のオーディションから現在までの様々な場面を繋ぎながら進んでいく。それまでの記録だけではなく、主要メンバーが地元に帰ったり、インタビューを受けたりする映像も挟み込まれる。オーディションやレッスン、コンサートの様子などアイドルらしい部分から、舞台裏での喧嘩や、メンバーのスキャンダルまで描き出していく。記憶に新しい、松村沙友理のスキャンダルもかなり時間を割いて描かれ、メンバーが素直に『怒ってない人なんていなかったと思いますよ』と言ってのける。僕は本当に、乃木坂46というグループの来歴を全然知らなかったのだけど、この映画を見ると、その基本的な情報も分かる(まあ僕のように、乃木坂46をほとんど知らないままで映画を観に行く人間はあまりいないでしょうけど)

映画全体の構成で、一つ印象的だった点がある。それは、各メンバーの母親の言葉がナレーションとして流れるということだ。前例のある手法かもしれないが、非常に印象的だったし、面白いと思った。ある程度の修正はあるのかもしれないけど、恐らくどれも、母親自身の言葉で語られているのだろうと感じさせるものだった。西野七瀬の母親が、『私は娘を、私がいなければ何も出来ない子に育ててきたつもりだ』『子離れはまだ出来ていない』と語れば、白石麻衣の母親が、『弱みや本音を見せない麻衣が何を考えているのか、まるで分からない』と語る。母親が、「アイドルの母親」としてではなく、「娘の母親」として素直に言葉を紡いでいるような感触を凄く感じて、この演出も、このドキュメンタリーのリアルさをより強めていると僕には感じられた。

映画を観て、僕が強く惹かれたのが、生駒里奈と西野七瀬だ。特に生駒里奈は、このドキュメンタリーの主役と言ってもいいくらい、全編に関わっていて、その有り様に強く惹かれた。

まず、西野七瀬の方から触れる。西野七瀬については、母が語った、非常に印象的な言葉がある。

『(母が「楽しいの?」と聞くと)仕事が出来たら、それでいい。休みで家にいても不安が募るばかりだし、大阪に帰っても居場所はない。私には、ここしかない』

東京に友達はいない。人見知りで、臆病だ。それでも、母親の反対を押し切って、それまで大阪から東京まで通っていたのを寮暮らしに変え、さらにその後東京での一人暮らしを始めた。母曰く、一度も辞めたいと言ったことがないのだという。

「休みで家にいても不安が募るばかり」というのは、可哀想だなと思う。でも、きっと僕も、同じ境遇に立たされれば、同じことを思うだろう。あらゆる恐怖と闘いながら、それでも笑い続けなくてはいけない。いや、西野七瀬はよく泣いているというが、それでも、泣き続けるわけにはいかない。いや、「泣き続けるわけにはいかない」というのを押し付けているのは、大人だ。「笑わなくてはいけない場」ではなく、「自然と笑える場」が日常の中にきちんとあってほしいな、と思う。

生駒里奈は、凄い。凄いと思う。正直、アイドルとしては、スタイルが良いわけでも、顔が可愛いわけでもないと思う。それでも生駒は、ファーストシングルから5回連続でセンターに選ばれた。この映画を見ると、その理由が分かるように思う。
生駒里奈の描写のハイライトは、恐らく、松村とのやり合いのシーンだろう。「16人のプリンシパル」のステージ裏で、長回しでずっと続く、松村との喧嘩のようなやり合いは、生駒里奈という一人の少女が内に秘めるものの熱さを感じさせるのに十分だと思う。

『自分で頑張ったから、ここにいるんだよ』

当時生駒は、全開の自信を持って自己肯定できるような状態ではなかった。自身もまた、圧倒的な劣等感にさらされながら、それでもどうにか踏ん張って立っていた。自分には、何もできることがないと、生駒は言う。ネガティブなメンバーが多い乃木坂46の中でも、生駒の中のその劣等感は相当強かったことだろう。それは、ずっとセンターを務めてきたということとも関係してくる。

だから松村にも、劣等感に負けてほしくなかったのだろうと思う。劣等感は、はねのけなければならない。劣等感に潰されてはいけない。生駒はたぶん、毎日毎日そんな風に思っていたのではないか。だから、ここまで一緒に頑張ってきた仲間が、劣等感に潰されてしまうのが嫌だった。アイドルとして恵まれたものを持っていない生駒だからこそ、その小さな体から放たれた慟哭が、ぐさりと突き刺さる。
しかし、そのシーン以上に僕にとって印象的だったシーンがある。

『私は、乃木坂46のオーディションから今日までずっと、”運”だけでここまで来てしまいました。だから、自分をアピールできるようなことは、何もありません』

このシーンは、本当に大好きだ。
もちろん、生駒が努力をしなかったなんてことはないだろう。でも、生駒はきっと、「努力では決して埋められないもの」を知ってしまったのではないかと思う。

世の中には、どうやったって努力で乗り越えることが出来ないものがある。それは、気合とかテクニックの問題じゃなくて、無理なのだ。その先に行くには、才能しかないというような、圧倒的な断絶が、世の中にはある。恐らく生駒は、その断絶に気づいてしまったのだろう。

生駒が”運”と言ったのは、そういう意味だと思う。過去の自分の努力を否定する言葉ではもちろんなく、自分は何も持っていないんだと気づいたという意味なのだと思う。

それは生駒にとって、スタートラインとなった。それまで、どこがスタートなのかも分からないままウロウロしていた生駒は、自分に何もないと気づくことで、やっとスタートラインに立てた。だからこそ、運だけでここまで来てしまったと、まるで自分の努力を否定するようなことも言えるのだ。自分の欠落を認めたからこそ、そう言えるのだ。

僕も、生駒と同じことをずっと考えている。運だけでここまできてしまった、と。生駒と比べるのはおこがましいほどレベルは違うのだけど、僕も、自分の実力とは程遠い世界に新しく足を踏み入れることになった。初めは恐怖心しかなかったし、自分に何もなくて、運だけでここまで来てしまったと強く自覚しているので、不安でしかなかった。

でも、映画で生駒の姿を観て、勇気づけられた。何もない自分を肯定した生駒が、スタートラインに立ったその姿を見て、内側から湧き上がるものがあった。これは、僕自身がまさに環境が変わるタイミングであったということも大きく影響しているだろう。生駒に限らないが、特に生駒は、アイドルとして与えられた何かがあるわけではないからこそ、その圧倒的な努力が胸を打つ。本当に努力し続けた人間だからこその言葉が、僕のような劣等感にまみれた人間の心に響くのだ。しゃべる時のあの、純朴そうな田舎娘な感じも、努力を表に出さないような雰囲気でなんだか愛着がある。生駒里奈、凄い存在だと感じた。

乃木坂46のメンバーはみな、自分の言葉を持っている。”アイドル”としての立ち位置を完全に忘れることはないだろうが、しかしそれでも”一人の少女”としての素直な言葉が紡ぎだされているように思う。様々な失敗や努力の過程で積み上げてきた、借り物ではない言葉が、僕は好きだ。自分を隠すためではなく、自分を出すための言葉が好きだ。なんとなく乃木坂46という存在が気になりだして、特になんということもなく映画を観に行ったのだが、見て本当に良かった。陳腐な言葉だが、これから頑張れるような気がした。自分も、もっと頑張らないといけないと思った。

そして2ヶ月後、僕は引っ越したばかりの馴染みのない土地で、再び『悲しみの忘れ方』を見ることになる。

(文・黒夜行)

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筆者プロフィール

黒夜行
書店員です。基本的に普段は本を読んでいます。映画「悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46」を見て、乃木坂46のファンになりました。良い意味でも悪い意味でも、読んでくれた方をザワザワさせる文章が書けたらいいなと思っています。面白がって読んでくれる方が少しでもいてくれれば幸いです。(個人ブログ「黒夜行」)

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