頭の中で『?』が駆け回りつづけました。
乃木坂46メンバーが参加する、舞台「すべての犬は天国へ行く」を初めて見た時の感想です。皆さんはあの舞台を観て、どのような感想を持ちましたか? というか、あの舞台「わかりました」か?
僕はミステリー小説が好きです。良いミステリーにはリアリティがあると思います。人が殺される時、殺されなければいけない理由、犯人側から言えば『動機』、これが欠けていたり、あまりに稚拙だと、共感できずに小説を読み終えることになります。
ミステリーはフィクション(虚構)です。フィクションだからこそ、そこに描かれる出来事にリアリティが無ければ、読者の心を揺さぶることは出来ません。フィクションにおいて、リアリティが無ければ、ただの退屈な文章にすぎないのです。
僕は常々、こんな風に思って、ドラマや小説に接していました。
それでは、「すべての犬は天国へ行く」のシナリオにリアリティはあるか? 少なくとも、僕は共感できませんでした。何故、あの町の人々は死ななければいけないのか? そして、なぜ殺さなければいけないのか? その殆どに共感できませんでした。
であるならば、「すべての犬は天国へ行く」のシナリオにはリアリティは無いのか? もっとはっきり言うと『駄作』でしょうか?
ただ一方で、僕は冷静に考えます。『駄作』をわざわざ客演までしてもらって再演するだろうか?と。
僕は舞台に関しては、ほぼ素人です。乃木坂が関わった舞台しか観ません。そんな素人だからこそ思えたのかもしれません、「意味の無い舞台が何度も再演されるだろうか?」と。言い換えると、僕が共感できないこの舞台にも「何か意味があるはず」。ただ、それを僕が感じ取れていないだけであろう、そう考えたのです。
だから、僕は考えることにしました。「すべての犬は天国へ行く」という舞台の意味を。
ここまでが、僕が初めてこの舞台を観た後の心の動きです。
1度目の観劇では上記の通り、『?』だらけでした。2度目以降は、「この舞台、この脚本の意味を考えてみよう」という意識を持って舞台を観ました。そして得られた僕の解釈は以下の二つです。
『理不尽な人の死に共感できない事が、人の正常な心の動き』
『現実から目を背け続けた時の、最終到達地点は狂気』
冒頭に書いた通り、あまりに共感できない「人の死」の連続に、僕はこのシナリオを受け入れられませんでした。でも、僕はそれで良いんだと思います。『簡単に人は死んではいけない』、また逆に『簡単に人を殺してはいけない』、そういう思いが『根底に』あるから、受け入れにくいんだと思います。フィクションである舞台上で、簡単に人が殺し殺されるのを見て、人殺しに嫌悪感を覚えさせる、それがこの舞台の存在意義の一つではないだろうか? 僕はそんな風に思いました。
この舞台のシナリオが、わからなくて良いのです。嫌悪感、違和感を持っても良いのです。それが多分、僕達があるべき姿なのです。
この舞台で描かれているもう一つの重要な要素は、『現実から目を背ける』です。舞台上で登場人物たちは、自分にとって都合の悪いことから逃げていました。それが心地よい事も有ったでしょう。でも、その積み重ねで行きついた先は『狂気』でした。簡単に人々が殺し合うという『狂気』でした。
想像してみてください。もし自分が現実逃避を繰り返し続けたら? 勉強の厳しさから逃げ続けたらどうなるか? 仕事の厳しさから逃げ続けたらどうなるか? 人間関係の煩わしさから逃げ続けたらどうなるか? 自分のふがいなさから逃げ続けたらどうなるか? 行きつく先は、多分、犯罪か無気力。
『現実から目を背けるな』というメッセージがこの脚本には込められているのかなと僕は思いました。
もう一つ、僕が考え続けた事があります。それはタイトルです。タイトルには最大の『想い』を込めるのが普通な気がします。それならば「すべての犬は天国へ行く」にはどんな意味が込められているのか? 僕は考え続けたけど、今現在、答えが出ていません。
犬が死んだ描写は舞台では一度だけ。なのに『すべての』という言葉が使われています。犬は何かの比喩なんでしょうか? なぜ『犬』なんでしょうか? 猫じゃ駄目だったんでしょうか? うーん……、どなたか教えていただけたら幸いです。
最後に。
この舞台を観終わって、なんとなく世の中の理不尽な死を考えてみました。どんなのがあるかなーって考えてみたら、現実には理不尽な死って沢山あふれているんです。例えば交通事故。被害者に死ななければいけない理由なんてこれっぽっちもありません。通り魔事件、これも被害者に死ぬ理由なんてありません。もっと言えば、犯人の動機も僕達には共感できません。海外に目を向ければ、戦争、テロ、人が理不尽に死んでしまう出来事はあふれています。
『死ぬべき理由がある人が死ぬ』というのがミステリーにおける『リアリティ』でした。それが読者としての僕が共感できるシナリオでした。でも、『理不尽な死』の方がリアルなんですね。共感は出来ないけど、リアルです。フィクションの中のリアリティは、フィクションの中でしか通じない、そんなことに気付かされてしまいました。
理不尽な死はリアルです。でも、理不尽な死は理不尽なんです。決してそれを良しとして受け入れてはいけないのです。交通事故で人が死ぬ事はリアルだけど、無くさなければいけません。戦争で人が死ぬ事もリアル、テロで人が死ぬ事もリアル。でも、それはやはり理不尽で、受け入れるのではなく、無くしていかなければいけないのです。
一方で『死』は不可避です。世に生きるものにおいて、唯一絶対の真理は、必ず死ぬという事です。『死』は受け入れなければいけません。だとしても、理不尽じゃない方がいいなー……。
いずれ歳をとって、病気になって、あるいは老衰で死ねるという事は、とても希有な事で、そして、幸せなことかもしれません。
一回しか観劇していませんが、タイトルについては、以下のように二つの意味があるように感じました。
1.犬=男性(猫=女性)というイメージから、男性を天国へ行かせる場所=娼館という暗喩。
2.犬=忠実・善良というイメージから、舞台上の良い人から順に天国へ行き(=死んでいき)、最後に残るのは裏切りや悪辣な人であるというプロットを暗示している。
通常の「正義が勝ち、悪が滅びる」という主題の逆を描くことで、人間の性みたいなものを描こうとしているんではと感じました。
拙いながら、ワタシの感想を書き込み
何らかの返信になればと思います。
まず、お芝居に関して「素人」が観て
面白いとか、感動したとか、また観たい など
ココロが動くのが、その人にとって
《良い舞台》であるコトは基本で
「?」が一杯のママ、劇場を後にするってのは
実に、あと味のヨロシクナイ情況だとお察しします。
ワタシも、一回目は「えっ?」「えっ?」って
思っている間にスジが流れて行ってしまい
モヤモヤしたママ、帰宅したクチです。
二回目三回目と見るに したがって
「あー…」と思える箇所が補完していき
ナイロン100℃オリジナルメンバーによる
舞台はどんなだったろう?
かと思えるようになりました。
さて、ストーリーについては
本来、ナンセンスまたは不条理劇であると思われるので
踏み込んで整合性を求める必要は無いかと感じます。
例えるならば
大画家・ピカソ氏の作品。
人物の顔を描いているだろう作品について
正面顔と横顔が合体しているような
あの有名な作品。
アレを見て、「こんなの人の顔じゃない!」
「もっと写真のように忠実に再現すべき‼︎」
という意見も確かにその通りでしょうが
ピカソ氏が私の表現はコレだ、と言われれば
ソレはそれ。
今回の舞台は、乃木坂メンバーの表現力や
舞台映えする立ち居振る舞い、今後への期待を
見極める舞台として観ると
ずいぶん気楽に、そして特上に楽しめる舞台であったと
ワタシは満足しています。
※ みなさん素晴らしかったのですが
特筆すべきは桜井さんの雰囲気と新内さんのシルエット
と思いましたが。この点、悪意は無いので気になさらず。
また、キーポイントとしては…
「生きてるってのと、死んでるってのの境目ってなんだい?」
ではないかと 勝手に思っています。
そして、犬は普段はほったらかしで気にも留められず
ワンワン吠えている時だけ存在を認識され
死んでからやっと日の当たる場所に
連れ出してもらえた…。
そんなトコロに、お芝居を掘り下げるヒントが
あるのではないかと思います。
お返事にはほど遠いかも知れません。
納得の返信が投稿されるのを
ワタシも同様に心待ちにしています。
全くもって個人の意見ですが、
あの酒場(村)は現実と天国の狭間だったのでは
と思いました。
中盤、死んでいった人たちがデボアの歌に合わせて
行進して行くシーンでエバとメリィが手を繋いで
幸せそうに去っていくのを観て、これで天国に行けるのかな
なんて思ったのでした。
犬の所を人に変えてみなさいな!全ての人は天国に行く。
または園子温監督や石井岳龍監督が好きな人は普通に楽しめるよ!!
またはメランコリアの監督好きも多分理解出来るよ!!
理由必要か?
共感できると面白いの?
タイトルが内容と合ってないものなんていくらでもあるよ。
最後に、なんで乃木坂は46なの?35じゃダメなの?
そうゆうもんだって思えばいいじゃないの。
犬は犬死の隠喩だなんて適当な推測を立ててみました
男性を失った女性=主人を失った犬なのかなーと。象徴的なのが、
・ドナヒューとわかちゅ&まいちゅんが一緒に埋められる。
・ゆったんの「犬だって人間だろ!」の台詞。
・死んだ方が幸せ的な事をドナヒューにも生駒ちゃんにも言う。
まあこれが現代の日本が舞台だとそんなに男性に依存してないわ!ってなるから西部劇なのかなー。
面白い舞台だと思いました。テーマとして、土地(共同体)の問題、差別、妬み、銃社会、とかいろいろ挙げられると思いますが、そういうことをいろいろ考えていくのも面白いですね。
あと、テーマとは別に気になったのが桜井玲香の役について。キャップは2人の人間を演じていたのか、それとも(結局のところ)1人の人間を演じていたのか。観てたお客さんの中でも意見が分かれてそうで気になります。
上の人が書いているように、実際に見ると「不条理劇」ですよね(「シリアス・コメディ」といっているけど)。
「?」が駆け巡ったという反応は正解というか、変なリアリティや意味やわかることに対する挑戦だからまんまとはまったと言うか。
れかたんことキキさんは亡くなった医者の旦那さんの真似事をしていたんだと思いますよ〜(^o^)なので1人の人間しか演じてないかなと。
付け髭が上下反対に付いてたり、葉巻に火が点いてなかったり、医者として銃殺された際のさゆちゃんのイジワルな台詞「葬式にはキキさんも来るのかなあ」などなどの点により判明するんでないかな。
自論の「男性を失った女性=主人を失った犬」を持ち込むと、さゆちゃんなんかはハチ公のごとく来ない主人を「待つ」姿勢を取ってるけど、れかたんは自ら主人を演じ始めたっていう(O_O)
しかしまりっかは本来なら恋敵であるはずの奥さんと心中した訳だが、あれで満足だったんだろーか(ー ー;)
話の内容からするとキキが旦那を演じていたと考えるのが自然でしょうね。
ただまりっかが満足してたかどうかは本当にわかりませんが。覗きもしてたことを考えるとなおさら不思議ですが、ここら辺の話はあんまり突っ込まない方がいいのかも。