齋藤飛鳥は、「自分」を手放しているように感じられる。
世の中の多くの人は、「自分」という存在に縛られているのではないかと感じることが多い。自分は長男だから、血液型がB型だから、専業主婦だから、もう年だから、外国には行ったことがないから…。そういう色んな「自分」に囚われたまま、不自由さを感じているように思う。やりたいことがあってもセーブしたり、やりたくないことがあっても断れなかったりするのだろう。
人によっては、自らそういう「自分」に囚われたがっていると感じる人もいる。占い本や宗教などに走ってしまう人の中には、自分を囚えてくれる大きな存在を求め、その不自由さの中で生きていたいと思う人もいるのではないかと思っている。
齋藤飛鳥からは、そういう印象をまったく受けない。
齋藤飛鳥は、「自分」がどうであるか、という要素に影響を受けていないように思う。
『(コンプレックスは)ほぼ全部です。顔が小さいと言われても、嫌だと思わないけど、得なこともないので。だいたい、よく見たら小さくないですから』
齋藤飛鳥は、小顔であるという、女性にとっては武器になるだろう要素を手放す。小顔であるということが、齋藤飛鳥という人間には影響を与えない。与えていないぞ、という風に捉えている。小顔については、自分が努力して得たわけではない、というような感覚も、それを自分のものであると捉えられない理由なのかもしれないと僕は勝手に考えている。
「努力」については、こんな発言がある。
『明石家さんまさんの「努力は逃げ言葉」も「そうだよな」と思って書き留めました。私も自分からは努力という言葉は使っていないはずです。もし、「努力していますか?」と聞かれたら、「してないです」と答えます』
齋藤飛鳥は、努力している自分も手放す。努力しているから結果は伴わなくてもいい、と思ってしまわないようにという戒めの発言なのだけど、こうも潔く努力している自分を手放すことが出来るものかと思う。
ライバルについて聞かれて彼女はこう答える。
『3年前くらいまでは、メンバーに対していい意味でライバル心があったんです。負けちゃいけないなって。プライドが高かったんですよ。今はいい意味で力が抜けたし、自分のことがやっと理解できるようになったんです』
齋藤飛鳥は、対抗心さえ手放す。もちろん、ライバル心がなくなった理由には、センターを経験したという事実も影響しているだろうと思う。苦労を重ねた末にセンターという形で評価されたという経験が、彼女から力を抜くいいきっかけになったのではないか。とはいえ、だからといって対抗心を簡単に手放すことが出来るわけでもないはずだ。一度センターになったと言っても、戦いは常にあるのだから。これも、齋藤飛鳥の「自分」を手放す在り方故だろう。
「戦い」についてはこんなことを言っている。
『(飛鳥さんが今、戦ってることはありますか?と聞かれて)
いや、ないです。基本的には勝負を仕掛けないタイプなので。納得できなくてもいいというか、そもそも納得しようと思ってないんです』
齋藤飛鳥は、納得する自分さえ手放す。この発言の論理は少し飛躍していると感じるが、おそらくそれは編集の問題だろう。勝手な想像だが、この質問の前に「納得できないことはありますか?」というような趣旨の質問があったのではないかと思う。その流れで、「その納得できないことと戦ってますか?」と聞かれたのではないだろうか。
「自分」というものをはっきり持ってしまうと、その「自分」が納得できるかどうかは比較的大きな問題になる。しかし齋藤飛鳥は、「自分」を手放しているので、納得するかどうかということが大した問題ではなくなる。『流れに身を任せています』とも発言している彼女は、「自分」がどうしたいかが人生や生活を動かす大きな原動力にはならないのだ。
こういう生き方は、非常に柔軟で楽だ。僕自身がそういう人間だからよく分かる。僕も、「自分」というものがほとんどない。これがしたい、あれが食べたい、あそこに行きたい…というようなことを思うことがほとんどない。基本的に僕の日常は、ルーティーンと他者からの誘いで成り立っている。日常はルーティーンを出来るだけ守ってこなしていき、後は他者から誘われたものは基本的に受けるというスタンスで生きている。僕自身は、こういう生き方がとても楽だ。
この生き方を楽だと感じられるのは、正しさの判断をしなくていい、というところにある。だから、マイナス思考の人間にはよく合っていると感じる。
「自分」というものを持っている場合、その「自分」の言動が正しいのかどうかを自分自身で判断しなければならない。何かやりたいことがある場合、それをやっていいと判断するのは基本的には自分だ。色んな要素を考え合わせて、その判断を下さなければいけない。
しかし、マイナス思考の人間には、これがなかなか難しい。
『洋服を買う時、今年の頭くらいまではお母さんと伊藤万理華の指示に従っていました。買い物中にいちいち写真を撮って、2人に送って確認をとっていたんです』
自分で服を買うというのは、その服が自分に合うかどうか自分で判断しなくちゃいけない、ということだ。当たり前じゃないか、と思われるかもしれないけど、マイナス思考で自信がない人間にはこれが難しい。僕自身は、着るものなんかなんだっていいと思っているから、服を買うということには悩まないけど、齋藤飛鳥はそうはいかないのだろう。自分の内側から出てくる正しさを信じられないが故に、他者の正しさに乗っかるしかないのだ。
服を買う、という程度のことであれば人生にさほど大きな影響はないが、「自分がこうしたい」という思いを持つということは、その時その時で正しさの判断が求められるが故に、マイナス思考の人間には辛いことなのだ。
だから「自分」を手放してしまう。「自分」を手放して、その時々で相手の、あるいはその場の正しさに身を任せる方が、こういうタイプは安心できるのだ。
『(友達について聞かれて)メンバー以外では2人くらい…といっても、「友達は多くなくてもいい」というのは深い仲の友達がいる場合じゃないですか。私の2人は深くなくて、一緒にご飯を食べたことがあるくらいで互いの秘密を知ってるわけでもない。ひとりが好きだから寂しいと思わないけど、希に寂しいと思ったら女性マネージャーさんに連絡します(笑)』
マイナス思考の人間が「自分」を持ってしまう場合、一番大変なのが人間関係だろう。他者と関わる時は、様々な場面で正しさの判断を突きつけられるからだ。齋藤飛鳥は、友達を持たないことで、その判断から逃れている。「ひとりが好き」というのは本心だろうが、それは「他者といる時に正しさの判断を迫られるのが辛いから、それよりはひとりの方が好き」という意味だろう、と僕は考えている。
『中学デビューしたかったんですけど、まわりにビビってできなくて。でも、ついていくためにイケイケ風な女子を演じていました。途中から女の子特有の面倒くささを感じるようになりました。いまでは無理して自分を作っていたことを後悔しています。イケイケ風な女子も乃木坂初期のいちごみるくキャラも本当の自分じゃなかったんです』
イケイケ風な女子もいちごみるくキャラも、本来の自分ではないだろうが、「自分はこうだ」という決めつけであることは間違いない。そういう決めつけを持ってしまったが故に失敗した経験を何度も経てきたことで、齋藤飛鳥は今のようなスタンスを獲得していったのかもしれない。
「自分」を捨てた齋藤飛鳥は、同時に、自分が何らかの枠にはめられないように、という意識も常に持っている。
『(18歳という年齢についてはどう考えていますか?と聞かれて)
いろいろ得がある年齢だなって。大人ではないので大人がやらなきゃいけないことは免除されるし、子どもじゃないから子どもっぽいことをしなくてもいい。17、18歳は一番難しい年齢と言われているじゃないですか。だから、それを理由にできるのが得だなって思います(笑)』
齋藤飛鳥は、「18歳という枠」をひらりとかわす。世間の「18歳」に対するイメージを逆手にとって、自分の輪郭をぼやかそうとする。ある枠組みで捉えられてしまうと、その枠の内側が正しいと思わされてしまい、その内側でしか動けなくなる。それは、「自分」を持っているのと大差がなくなるということだ。もしかしたら彼女はインタビューというものを、ファンや読者が齋藤飛鳥を見る際の枠組みを取り払うための手段と捉えているのかもしれない。「齋藤飛鳥はこうだから」という枠組みを壊すために言葉を紡いでいるのかもしれない。
『うーん、でも私はどんな意見も受け入れるというか、あえて自分のことを調べたりはしないけど、批判的な意見にも「参考になります」と思えるタイプなんです』
「自分」を手放すと、批判は届かなくなる。それは同時に、称賛も届かなくなることを意味するが。批判も称賛も、届くべき先の「自分」というものがないから客観的に捉えることができるのだろう。マイナス思考で自信がなくてもなんとかアイドルとしてやっていけるのは、この客観性のお陰もあるだろう。
齋藤飛鳥は「自分」を手放しているが、思考や価値観まで手放しているわけではない。齋藤飛鳥が「自分」を手放すのは、他者となんらかの関わりがある事柄について正しさの判断をする自信がないからだ。自分にしか関係のないことであれば、齋藤飛鳥は自分なりの考えや価値観を持てる。そこがまた、齋藤飛鳥という人間を面白くしている要因なのだと思う。
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