先日、齋藤飛鳥がヒロイン役を務めた映画初出演作『あの頃、君を追いかけた』を観てきました。僕は、彼女が演じた「早瀬真愛」に「齋藤飛鳥」というキャラクターを重ねて観ていたので、 一般的にこの映画がどう受け取られるのかはうまく想像できません。 正直、純粋に観ることが難しかったです。
いやこれは、「つまらなかった」とか「別のヒロインで冷静にストーリーを堪能したかった」みたいな意味では全然なくて、個人的にはこの映画を楽しんで観ることが出来て実に満足しています。でも、「僕が感じた面白さ」は、齋藤飛鳥ファンではない人にはなかなか共有してもらいにくいだろう、という意味で、こんな書き出しから始めてみました。
事前に読んだインタビューでは、この映画にどう臨んだのか、演技に対してどう感じたのかなど様々なことが語られているのだけど、その中でよく触れられていたのが、監督から言われたスタンスについてでした。
彼女は、ドラマや舞台経験はあるものの、映画での演技は初めてです。だから、どんな風に撮影に臨めばいいか悩んだと言います。最初は、「早瀬真愛」というキャラクターを良く理解して、作り込んで現場入りしなければならない、と考えていたそうですが、監督から「なるべく作り込まずに、素のままで演じて欲しい」と言われたそうです。
だからでしょう。僕が観る限り、「早瀬真愛」は、かなり齋藤飛鳥そのものだったな、と感じました。(あくまでもメディアから得た知識で作った「自分なりの齋藤飛鳥像」と比べている、という話です。)
舞台は、北京五輪で北島康介が「なんも言えねぇ」と言った少し後、東京ではスカイツリーの工事が始まった頃、まだガラケーが主流だった頃の地方の高校。校則が厳しい学校で、「天然パーマ証明書」を提出しなければならない水島浩介は、しかし教師からの再三の催促を無視する、割と問題児。授業中後ろの壁の方を向いていろと言われることもザラで、もちろん成績も良くはない。幼稚園の頃から幼馴染である小松原詩子や、クラスメイトの陽平・健人・寿音・一樹らと、受験勉強もロクにせずにふざけてばかりいる。
早瀬真愛は、学校一のマドンナで、詩子と仲がいい。脳の半分が男だと自覚している詩子とは違って、真面目な真愛は町医者の娘で学年一の成績優秀者。浩介とはまるで関わりのない存在だったし、浩介としても、融通が利かない“深窓の令嬢”とはあまり関わりたくないと思っていた。しかしある日教師から、真愛に勉強を教えてもらえと、浩介は真愛の前の席に座らされることになった。
休み時間にアホみたいな会話をしている浩介たちを「幼稚」と突き放す真愛。しかしある日、普段だったら絶対に忘れることのない教科書を家に置いてきてしまったのだが、浩介が自分の教科書を真愛に渡し、身代わりとして教師に怒られてくれた。恩義に感じた真愛は、勉強を全然しない浩介のために数学のテストを作成、勉強も見てあげることになるのだが……。
というような話です。
まず、非常に印象的だったセリフを抜き出してみます。
『私のこと、良く思いすぎてない? たぶん、美化してる』
『あなたが好きになったのは、想像の中の私かも』
これらは齋藤飛鳥も、凄く言いそうなセリフだなと思いました。僕は以前からこういう、「自分の中の自信の無さから他者の好意を素直に受けとめきれない」「自分に都合が良すぎる状況を信じたために裏切られるのが怖くて信じきれない」みたいな発言に、彼女のインタビューで触れていたので、このセリフを言うシーンでの「早瀬真愛」の感覚が凄く理解出来た気がしました。でも齋藤飛鳥という人をあまりよく知らないまま映画を観ている場合はどうなんだろう、とも感じました。というのも、そこまでのストーリー的に、「早瀬真愛」は確かに他者とあまり関わりを持とうとしてこなかったけど、それは「自信の無さの表出」というより「自分なりの生き方を貫く強さ」に見えるだろうと考えたからです。
こんなセリフが印象的でした。
「水島浩介」が「早瀬真愛」に、『何故こんな親切な命令をしてくれるの?』と聞く場面があります。真愛から自作の数学のテストを渡されて、浩介が嫌がるシーンです。
「早瀬真愛」の返答はこうでした。
『軽蔑したくないから。(浩介が、「数学のテストの点数なんかで軽蔑されるのかよ」と返すと、)私が軽蔑するのは、努力していないのに人の努力を軽んじる人よ』
こういうシーンが結構あるんですよね。こういうのは「自分なりの生き方を貫く強さ」と受け取られる気がしました。もちろん、初めの方のこういうシーンは実は照れ隠しで、最初から浩介のことが好きだったけどそれを素直に表に出すのが怖い、という自信の無さの表れと捉えている人もいるかもしれません。齋藤飛鳥というフィルターを通してこの映画を観ている僕にはどちらなのかうまく判断出来ませんが、前者の受け取られ方だった場合、後半の「自身の無さの表出」が唐突に見える可能性もある、と感じました。
話を戻しましょう。他にも、齋藤飛鳥が言いそうだなぁ、というセリフが色々ありました。例えばこんな場面です。
『(数学が人生の何の役に立つんだ、という浩介の疑問を受けて)見返りを求めない努力が人生には必要なんだと思う。それに、幼稚なことばっかり言って何が人生の役に立つの?』
もちろん、齋藤飛鳥がここまで苛烈なことをはっきりと口に出すことはないでしょうけど、心の中ではこんな風に思ってるんじゃないか、と感じました。
そんなわけで僕は「早瀬真愛」をずっと、齋藤飛鳥だと思って観ていました。たぶんこれは、演者にとってはあまり嬉しくない評価だろうなぁ、と思います。いくら「素でやってくれ」と言われたといっても、彼女は「早瀬真愛」というキャラクターを演じているわけだから、恐らく「早瀬真愛」を齋藤飛鳥本人と観るような見られ方は好まないような気がします。でも、齋藤飛鳥が好きな僕としてはやっぱり、セリフや表情などから、齋藤飛鳥感が強く滲み出ていたなと思ってしまいました。特に笑い方なんか、僕がテレビなどでよく見る齋藤飛鳥そのものという感じがしました。僕は齋藤飛鳥が爆笑する時の感じが好きなんですけど、「早瀬真愛」もそういう笑い方をしていました。
この映画に関連するインタビューの中で、齋藤飛鳥本人も、また共演者たちも、「齋藤飛鳥の壁」の話をしていました。彼女自身は、他の共演者に対して壁を作っていたつもりはなかったらしいけど、普段の齋藤飛鳥のままでいたら、そりゃあ壁があるように見えるだろうな、と理解できます。他の共演者たちは、その壁が厚すぎて、この映画無理なんじゃないかと思っていた、みたいな発言をしていました。でも、映画を撮影していく中で徐々に打ち解けていくことが出来て、それが映画のストーリーとうまくシンクロしていって良かった、というようなことも言っていました。
そういう意味でもこの映画は、まさに齋藤飛鳥らしさ全開と言えるでしょう。映画の中でマドンナ的な立場である「早瀬真愛」は、多くの人から注目を集める存在でありながら、「昭和の道徳」と言われる古風な言動と、他人に心を開かないあり方から、特に男子は近づけないでいる存在です。現実の齋藤飛鳥も、乃木坂46のメンバーと一緒にいてさえそこまで馴れ合った関係にならない、という色んなメンバーからの証言がある通り、相手が女性であってさえ関係を築き上げていくのに時間が掛かるタイプです。映画の中の時間、そして撮影の中の時間が経過していくにつれて、「物語」と「現実」両方の関係性が少しずつ変化していくという流れが、映画を見ながら垣間見られたような気がして、とても良かったです。
パンフレットによれば、齋藤飛鳥はクランクアップの時に泣いたと言います。その涙には色んな理由があったと本人は書いています。しかしどんな理由であれ、「感情がこみ上げてきて涙する」というのは、僕がイメージする齋藤飛鳥像では相当レアな事柄なので(インタビューなどで「感情の浮き沈みがあまりない」というような発言を良く目にします)、この映画の撮影を通じて大きく変わった部分があるのかもしれないな、と思いました。
あと余談ですが、齋藤飛鳥絡みで言えば、映画の中で「カップスター」やパソコンの「mouse」なんかが、実にさりげない感じで登場していて、齋藤飛鳥の(というか乃木坂46の)ファンだったら気づけるようなちょっとしたアクセントになっています。あと、映画の中で「水島浩介」が「なんでしゅか?」と返す場面があるんだけど、あれは齋藤飛鳥のニックネームの一つである「あしゅ」と関係あるんだろうか?とか考えてしまいました。
僕にとっては、「早瀬真愛」と齋藤飛鳥をシンクロさせて見ることで、とても楽しめる映画でしたが、冒頭でも書いた通り、一般的にこの映画がどう受け取られるのかはうまく想像出来ません。冷静な視点で見た場合、「早瀬真愛」という人物の内面の変化はちょっと分かりにくいんじゃないか、という気もしました。
僕がうまく掴めなかったのは、真愛がいつ浩介を好きになったのか、ということです。もちろん、「好きになった瞬間」などというのはなく、結果的に長い時間を過ごすことになる中で少しずつ、というストーリーなんだろうとは思います。それでもこういう物語の場合、「ここがそのポイントです」的な描写をされることが多いように思います。僕が見る限り、そういうポイントがはっきり描かれることはなかったので、ある意味でそれは現実をリアルに描き出しているとも受け取れました。しかし一方で、真愛という人物の分からなさにも繋がったかな、とも感じました。僕は「早瀬真愛」というキャラクターに齋藤飛鳥という人格を入れ込んで見ていたので、そんなに違和感はありませんでした(齋藤飛鳥であれば、「早瀬真愛」のような振る舞いは自然だな、という意味です)。ただ、ビジュアルはともかく、「齋藤飛鳥」というキャラクターはそこまで広く浸透しているわけではないだろうから、「早瀬真愛」に齋藤飛鳥のキャラクターを重ねずに観ていた人がこの映画どう感じるのかはちょっと僕には想像出来ないな、と思いました。
齋藤飛鳥自身もインタビューの中で何度も発言していましたが、僕自身もこういう、いわゆる「ザ・青春」のような時間を過ごしたことがないので、「なんか眩しいなぁ」という風にこの映画を観ていました。羨ましい気もするけど、でもそれは決して羨ましいばっかりなわけじゃない。この時間がずっと続くなら確かに最高なんだけど、そんなわけはない。かつて自分の手のひらの上にあった何か、あるいは自分のすぐ傍にあった体温なんかが、時間とともに「失われた」という感覚になってしまうことが、その後の長い長い人生の中でどう消化(あるいは昇華)出来るのか、僕には経験がないので実感は難しいです。ただ、「早瀬真愛」あるいは齋藤飛鳥のような人と、人生のごく短い期間であっても深く関わることが出来る、というのはやっぱり羨ましいよなぁ、という気もするし、そういうヤキモキした感じを、映画中感じていたような気がします。
最後に、この映画のオリジナルについても触れておきましょう。元々は台湾の映画で、2011年に公開されるや、ほぼ無名のキャストながら社会現象をまきおこす大ヒット。台湾では10人に1人が観たと言われているそうです。香港では『カンフーハッスル』(2004)の記録を塗り替えて、中国語映画の歴代興収ナンバーワンを記録した、とか。この映画は、原作・脚本・監督を自ら務めたギデンズ・コーの実話をベースにしているそうです。おいおい実話ベースなのかよ、なんか羨ましいな、という感じがしました。
コメントありがとうございます!
僕は齋藤飛鳥目当てで観に行ったところがあるので、客観的に映画としてどうなのかを判断するのが難しかったなぁ、と思っちゃいました。
まあ、「台湾で10人に1人が見た」みたいな話題が先行する部分も多かったから、そういう意味で期待度が上がってしまった部分もあるかもしれないなぁ、なんて思ったりしました。
なるほど、制服は気付かなかったなぁ。そういうところは、どうも見逃してしまいがちです(笑)
上映館が一気に激減し、いよいよ上映期間が終わってしまうのではないかといかう先週末、やっと観ることができました。
齋藤飛鳥のかわいさ、美しさをに引き込まれる時間を過ごすことができましが、映画としては う~ん?? と思う内容でした。
台湾の人たちは共感できるのかもしれませんが、日本人が映画の世界に引き込まれる内容か?というといかがなものか?
些細なことかも、しれませんが、受験も大学入学の状況も「夏」、でも高校の卒業式のシーンだけみんなの制服は冬服。その設定の不自然さがこの映画の製作者の本気度を物語っているように思いました。