『最初の頃は「THEアイドル」になろうとしてたんですけど、王道じゃなくても受け入れてくれる人がいることを知って、その理想像はなくなりました。』
齋藤飛鳥が初表紙を飾った「EX大衆」5月号に、表紙連動インタビューとして齋藤飛鳥のロングインタビューが載っていた。このインタビューの中で一番意外だったのが、冒頭の部分だ。
インタビュアーの大貫真之介氏によると、齋藤飛鳥は乃木坂46加入前(2011年夏以前)、AKB48やSUPER☆GiRLSが好きだったという。アイドルに対する憧れがあったから、乃木坂46のオーディションを受けたのだろう。僕の中で、齋藤飛鳥はどうしてアイドルのオーディションを受けたのかがイマイチしっくりきていない部分があった。それは、彼女はアイドル的なものに興味がないのだろう、と思い込んでいたからだ。元々アイドルに興味があったなら、不自然なところは何もない。
『アイドルらしくない道もあると分かった途端、(THEアイドルを目指していた自分が)どうやっていたのかも忘れてしまって(笑)。最近は、「自分はアイドルなんだ」とはあまり意識していないというか』
だからこそ多くの人に受け入れられているのだろう、というインタビュアーの感覚には、僕も賛成する。僕は以前、「齋藤飛鳥は“自然体”を演じている」という話を書いたことがある。齋藤飛鳥の振る舞いが、見ている人からは自然体だと思える。その振る舞いに齋藤飛鳥の魅力があるのではないか、と僕も思う。(関連齋藤飛鳥の自然体と「自然体」~『乃木坂46の「の」』伊藤万理華×齋藤飛鳥回を聞いて~)
インタビュアーも、今の齋藤飛鳥からは「アイドル好き感」が出ていない、と言い、それに対して齋藤飛鳥はこんな風に答えている。
『アイドルは好きだけど、女子の集団は苦手だし、人見知りしてしまうんです。』
『(共演している子でも)しばらく会ってないと心の扉が閉ざされてしまう。』
齋藤飛鳥は人見知りだったり対人関係が苦手だったりという発言をよくする。そのきっかけになった出来事をこのインタビューの中で少し語っている。僕が目にした範囲では、自分の性格が変わっていった具体的なエピソードを語っている齋藤飛鳥はこれが初めてな気がする。
具体的、とはいえ、何か特定の出来事があったわけではない。恐らく女子の世界だったら、世の中の女子全員ではないけど、多かれ少なかれ何らかの形で経験しているのではないかと思う、女子同士のちょっとめんどくさい関係性が積み重なって今に至る、という感じのようだ。本人としても説明しにくいだろう。具体的なわかりやすいエピソードがある方が楽だなと感じている部分もあるだろうけど、そこで適当にあしらわないのは良い。
『同級生で取り立てて仲のいい子もいなかったし、いじめられるわけじゃなかったけど、女子って面倒くさいので少しずつみんなとずれていったというか』
僕は比較的女性と恋愛的な意味ではなく距離を詰められる方だと思っているんだけど、それが出来るタイプというのが、女子同士の関係がめんどくさい、と言っている女性だ。僕が割と仲がいいと思っている女性は、大体そういうことを言う。女友達よりも男友達の方が多いタイプ。齋藤飛鳥は恐らく、男友達だって多くないだろうけど、タイプとしては男の中にいる方が楽なんじゃないかな、と思う。
女子同士の関係でこじれたメンバーには、西野七瀬や白石麻衣などがいる。共に、ドキュメンタリー映画「悲しみの忘れ方」の中で、部活での女子同士の関係性から他人との人間関係がうまくいかなくなった、というような発言をしている。齋藤飛鳥もそういうタイプだろうし、彼女たちほどではないにせよ、乃木坂46にはそういうタイプの女子が集まっているのだろう。「女子の集団は苦手」という齋藤飛鳥がアイドルグループの中でやっていけているのは、乃木坂46というアイドルグループの雰囲気あってのことなのだろう、と再確認させられた。
『みんな元気なのがしんどいなと感じてきちゃったんです』
中学校時代の人間関係を聞かれてそう答える齋藤飛鳥。こういうことをはっきりと口に出せる女の子が、アイドルとして人前に立ってスポットライトを浴びている。そのことが与える勇気、みたいなものは確実にあるはずだ、と僕は感じる。
『でも結果的に期待はずれになることも多いと分かったので、いまは「世の中そんなもん精神」がより強固になっています』
期待が裏切られた時に最もストレスが掛かる、という心理学の研究結果を知って納得した齋藤飛鳥は、物事に期待しなくなった。どれだけアイドルとして人気を得ようとも、どれだけ多くの人にその容姿を羨ましがられようとも、齋藤飛鳥はそのスタンスを崩さない。
自分の心の弱さをきちんと理解している、というのは大事なことだと僕は思う。そして、それに対処する方法を自分なりに見つけることも。僕は、自分の心の弱さは相当早くから認識していたのだけど、それにどう対処したらいいかは全然分からないで逃げてばかりいた。ようやく自分なりに先手を打って対処出来るようになったのは25歳ぐらいじゃないかな。齋藤飛鳥は、アイドルという厳しい環境に身を置いていたとはいえ、たった17歳で既に自分の扱い方を習得している。そして、楽観的に物事に臨むでもなく、かと言って悲観的すぎもせず、「世の中そんなもん」と思いながら目の前の現実をそのまま受け入れていくスタンスが、多くの人から受け入れられていく。
とはいえ彼女自身も、初めからこういう好循環の中に身を置くことが出来たわけではないだろう。少なくとも「THEアイドル」を目指していた頃は、こういう好循環はありえなかったはずだ。齋藤飛鳥の中でどのような変化があって、結果的にこういう好循環の中にいられるようになったのか。齋藤飛鳥のその軌跡はとても気になる。
『小さいことで「うれしい」と大きく感じることもできるようになりました。「世の中そんなもん精神」があるから何に対しても高望みしないので、うまくやれている部分もあるのかなと思ってます』
「がんばった日はイクラのおにぎりを食べることにしている」という齋藤飛鳥。これも、小さな幸せだろう。このインタビューの直後のページに、コンビニおにぎりの特集があるので、この発言を言わされてるのか?とちょっと疑ってしまう部分もあったけど、そういう小さな幸せで日常を乗り越えていける人のままでいて欲しいなと思う。【汚れなきものなんて大人が求める幻想】だけど。
『特定のイメージをつけられたくなかったという気持ちはありました』
アンダーから選抜へと上がる過程で、齋藤飛鳥はそういうことを意識していた、という発言をしていた。モデルの撮影でも、雑誌ごとのイメージに自分を染める、感じの意識なのだろう。自分自身の色を持たない。まさに乃木坂46のファーストアルバムの「透明な色」というタイトルそのものの体現、という感じもする。
だから、こうして僕が齋藤飛鳥について文章を書くことは、本人からすれば邪魔でしかないだろうな、という意識もある。イメージがないことを目指している人からすればちょっとした色付けも邪魔かもしれない。
それに関して言えば、基本的に自分が書いている齋藤飛鳥評は、すべて的外れだろうな、と思っている。基本的には、自分の性格に引き寄せて齋藤飛鳥という人を理解したつもりになっているだけで、たぶん全然掴めていない。まあ、でもそれでいいのだ、僕は。齋藤飛鳥というのは僕にとって、何か書きたくなってしまう対象であって、それが不正解でも僕にとっては問題ない。自分の小説が国語の問題に採用された小説家が、「下線部における作者の気持ちを答えなさい」という問題に答えられないのと同じように、齋藤飛鳥というテキストはきっと齋藤飛鳥自身にもきちんとは読み解けていないはずだ。だからそもそも不正解なんて存在しないんだ、という強弁を振るって有耶無耶にしようと思う。
僕は、自分自身は出来るだけ一貫性のある人間でありたいと思うし、他人を見る時も、一貫性のある人がいいなと思う。でも、齋藤飛鳥には、一貫性はなくてもいいかも、と感じてしまう。もっと僕をざわざわさせるような違和感を放出して、齋藤飛鳥をうまく読み解けない苦悩を楽しみたい気がする。自分でも、変な感覚だなと思うけど。
(文・黒夜行)
※本稿は、筆者が2016年4月に投稿した記事を再編集したものです。
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