昔から折に触れて考えてしまうことがある。
それは、「美人は本当に幸せなのか?」ということだ。
これは、僕が男だから提示出来る問いだろう。
女性だったら、どんな立場・状況の人が発しても、問いの本質に関わらない余計な贅肉がついてまわってしまう。そんな類の問いだ。
僕がそんな疑問を抱く時、思い出す本がある。桜庭一樹の小説『少女七竈と七人の可愛そうな大人』(角川書店)だ。その中に、こんな文章がある。
異性からちやほやされたくもなければ、恋に興味もなく、男社会をうまく渡り歩きたくもなければ、他人から注目されたくもないのに、しかし美しいという場合、その美しさは余る。過剰にして余分であるだけの、ただの贅肉である。
しかも、その悩みは誰にも打ち明けることが出来ない。過剰に持つものの羨ましい悩みであるとしか捉えられず、かえって非難を浴びることであろう。本人としては、真面目に思っているのだ。美しさに寄り添った人生など不要だ、と。しかし、周囲はそれを理解しない。美しさに付随するありとあらゆるを羨ましがり、それを活かそうともしない人間を軽蔑することであろう。
僕も、同じようなことを考えることがある。
女性と話をしていて、そういう「美しさ(あるいは「女性であること」)に寄り添った人生」を求めていないのだろう、と感じるタイプの人に会うことがある(というか、僕はそういう人に興味を持つことが多い)。そしてそういう人が、外見の美しさを有している場合、生きていくのはむしろ大変だろうなぁ、と感じてしまう。確かに「プラス」も多いかもしれないが、同じくらい「マイナス」も増えるだろうと思うからだ。
実際に、そういう話を直接聞いたこともある。化粧をせず、ダサい格好で大学に行って目立たないように静かにしているのに、それでも、構内を追いかけ回されたりするし、それでいて、同性からは妬まれる。そういう状況に陥ってしまうことで、様々な場面で散々足を引っ張られたという。
また、今からする話は女性から直接聞いた話ではなく、小説などを読んで僕が勝手に想像していることだが、外見が美しければ美しいほど、「中身を見てもらえない」というもどかしさにさいなまれるタイプの人もいるだろう。外見“だけ”ですべてが判断されてしまうことの虚しさを感じて、自分の外見の良さを誇りに思えないような人もいるのではないかと感じてしまう。
僕は、「もっと綺麗に生まれていたら、人生もっと良かったはずなのに」と言う女性の発言も何度か耳にしたことがあるが、その度に、ホントにそうだろうか?と思ってしまう自分がいる。美人がどれだけ「プラス」を得ているように見えても、本人にとってそれが「プラス」であるかは別問題だ。さらに、表には見えにくい「マイナス」を抱え込むことにもなるだろう。美人であることによって手に入れられる「プラス」に本人が価値を感じられない場合、美人であることはまさに「贅肉」でしかない、ということになる。男である僕にとってこの問いは差し迫ったものではないが、それでも時々頭に浮かぶし、考えを巡らせてしまう。
何故こんな話を書いたのか。それは、『トラペジウム』(KADOKAWA)の主人公・東ゆうがこんな発言をするからだ。
『アイドルになりたくない女の子なんているんですか?』
『私、可愛い子を見るたび思うのよ、アイドルになればいいのにって。でもきっときっかけがないんだと思う。だから私が作ってあげるの』
彼女にとって、「アイドル」というのは圧倒的な「善」であり「正義」であり、つまり「プラス」なのだ。自分の人生を賭ける価値があると感じられる唯一と言っていいものだし、そのためなら何でも出来る。
『初めてアイドルを見た時思ったの。人間って光るんだって』
しかし、誰もがそう思っているわけではない、ということを、彼女は失念してしまっている。「可愛い子はみんなアイドルになるべき」「なるきっかけがないから私が作ってあげる」という考えは、彼女の「憲法」みたいなもので、彼女には疑う余地はない。だからこそ猪突猛進にやれることがあるし、だからこそ失ってしまうものもある。本書を読んで感じた、主人公が持つこの「ズレ」が、僕が時々考える「美人」についての思考と結びついたのだ。
作中で、この場面にしか登場しないある人物が、こんなことを言う場面がある。
『だから、ちゃんと夢持ってる人っていんのかなって不安だった。今ここで話を聞いている生徒の中にはさ、なんとなく自分の偏差値に合ったから東高に入学して、なんとなくまた自分に合うレベルの大学を受験して、なんとなく入れそうな会社に履歴書送って、受かっちゃった企業になんとなく就職するって人多いと思うんだ。別にそれも悪くはないと思うけどさ。俺はちょっともったいねぇなって』
僕自身も、やりたいことがない側の人間だから、こういう人生を歩む可能性は十分にあった。しかし僕はそれを拒絶して、ちょっと普通とは違うルートでここまでやってきた。正解だったかどうかはともかく、悪くはなかったと思う。
一方で、やりたいことが明確にある主人公は、自分の人生に対してどう感じているのか。
私は、状況が変わるのを待っていた。しかしそんな日など待っていても訪れないのではないか。変わりたい、そう思った日から自分はこんなにも変わっているというのに。
これも捉え方次第では、容姿が美しいことが人生に「マイナス」に作用しうる例と言えるのではないかと僕は感じてしまう。美人であることによって、もちろん可能な選択肢は広がる。しかし、選択肢が広がるだけであって、確率まで上がるわけではない。もちろん、他を圧倒するような美人であれば、また話は違うのだろう。しかし、決してそういうわけではない、一般的なキレイさ・カワイイさの場合、結局どこにも行き着けない、ということだって十分にあるはずだ。結果的にそうだった場合、容姿の美しさによって選択肢が広がることが、果たして「プラス」であるのかは、判断が難しいのではないかと思う。
美しさが自分を、そして誰かを幸せにする、という意味で、「アイドル」という職業(生き方)は向いている人には最高だと思う。しかし一方で、「アイドル」という職業(生き方)が存在することによって、「アイドル」的に生きるべきという、無言の圧力も生まれることになるだろう(本書の主人公がまさにその圧力を生み出す側の存在だ)。その圧力は、向いていない人にとっては、美しさを嫌悪する要因になりうる。そういう、「アイドル」という存在が持つ矛盾だらけの歪みのようなものを、アイドルらしいキラキラした世界をほぼ登場させることなく描き出している、という意味で、本書は非常に特異な物語だと感じる。現役のトップアイドルがそういう物語を描き出している、ということも含めて、本書は作品として、他の小説家には成しえない自立の仕方を実現している、と感じた。
ここで改めて『トラペジウム』のあらすじを紹介しておこう。
主人公の東ゆうは、アイドルになりたい高校1年生。彼女は、彼女が住む城州という地域の東西南北の美少女を仲間にしようとしていた。東は、自分だ。あとは、南と西と北。事前の調査と無謀な行動力で彼女は、お嬢様学校・聖南テネリタス女学院の華鳥蘭子、西テクノ工業高等専門学校の大河くるみ、そしてかつての同級生(らしい)亀井美嘉という三人と仲良くなることに成功した。計画は順調だ。そう、彼女は、城州の東西南北から一人ずつ集めて、アイドルグループを作ろうとしているのだ。アイドルになる、その夢をなんとしてでも勝ち取るべく、彼女はそのことばかり考えていた。
お蝶夫人のような縦巻きロールにお嬢様言葉の蘭子、NHKロボコン大会で優勝し一躍有名になったくるみ、そしてボランティア活動に熱心に取り組んでいる美嘉と、まったく違う個性を集め、他の3人にはアイドルを目指しているなどとはおくびにも出さずに、彼女は自らの計画を遂行していく。
奮闘の末、僅かなチャンスをモノにした彼女だったが……。
というような話だ。
さて、本書について書く上で、「著者が乃木坂46という現役トップアイドルのメンバーである」ということを抜きには出来ないので、随時そのことを織り交ぜながら感想を書いていくつもりだが、先にこれだけは書いておきたい。それは、本書は、「アイドルが書いた」という部分を取り払っても十分に勝負出来るほど、作品として自立している、ということだ。
正直僕は、アイドルが書いた小説だ、という前提で読み始めた。ある程度、評価基準を下げた方がいいだろうと、不遜にも考えていたからだ。しかし、読み始めてしばらくして、そんな必要はないと感じた。普通に、ごく一般的な小説家と戦わせても十分に勝負が出来る作品だと僕は感じた。さらに先程少し触れたように、「現役アイドルが書いている」という点がプラスに働くテーマなので、この作品に限って言えば、著者である高山一実のアイドルとしての存在感も作品の評価にプラスすることが出来る。その辺りのことは後ほど書こうと思う。
「現役アイドルが書いている」という部分をプラスに転化しているということは、見方を変えれば、アイドルという強みを生かせないテーマの小説では勝負出来なくなる可能性を示唆しているとも言えるが、しかしそれは今後の話だ。本書はデビュー作であり、「小説家・高山一実」の存在を知らしめるためなら、使えるものは何でも使った方がいい。そういう意味で本書は、題材や切り口、描写の仕方などの部分で「現役アイドルが書いている」ことを強みにしているという点が、作品全体の強みにもなっている、と僕は感じる。
実は本書を読み始めた時、「文章が下手なのではないか」と感じた。例えば最初の方に、
首尾よく任務を遂行し、さっさと帰宅したいものだ。
という文章が出てくる。主人公は、高校1年生だ。今の高校生の感覚を僕が掴めているとは思えないが、しかし心理描写とはいえ、今どきの高校生がこんな話し方はしないだろう、と感じてしまった。
しかし読み進めていく内に、違和感はなくなった。その理由は、主人公の東ゆうが、ちょっと変わった人物であるということが明らかになっていくからだ。彼女は、「アイドルになる」ということを人生の第一義に掲げていて、だからSNSもやらないし、恋愛もしないし、茶色い地毛を黒く染めてもいる。他人との関わり方もちょっと独特で、そういう「東ゆう」という変わった女の子の描写をするのに、僅かに違和感を与える文体が合うのだ。これを意図的にやっているのか、あるいはたまたまうまく行ったのかは、本書しか読んでいないので判断できないが、意図的にやっているとすれば、結構高度なことをやってるなぁ、という感じがした。
本書の面白さは、「現役アイドルがアイドルについて描く」という部分だが、この点についてはもう少し掘り下げたい。
普通「アイドル」の物語と言えば、「芸能界のあれこれ」が描かれていると想像する人が多いだろう。僕も、高山一実がアイドルの小説を書いていると聞いた時、そういうイメージをした。しかし高山一実は、そのイメージを大きく外してきた。ここが、非常に重要なポイントだと僕は感じる。現役アイドルである高山一実が、「芸能界のあれこれ」を書くというのでは、「現役アイドルが書いている」という面白さが生まれにくいのだ。自分が今まさにそこにいる、一番描きやすくて書くこともたくさんあるだろう芸能界を描くのではなく、「アイドル」というモチーフを選びながら、ちょっと変わった女子高生が仲間集めをしているようにしか見えない設定で物語を紡いだことで、著者が現役アイドルであるということが活きてくる。何故ならこのやり方は、「主人公と著者が過剰に同一視されずに済む」という状況を生み出すからだ。
現役アイドルが、どういう形であれ芸能界のアイドルを描くとすれば、どうしたって「主人公=著者」と捉えられてしまう。しかしそれは、物語を生み出す上で、大きな制約となるだろう。主人公に発言させたことが、著者本人の発言と受け取られるようでは、自由に主人公に動いてもらいにくい。それはつまり、「現役アイドルが書いている」という部分がプラスになるどころか、マイナスに働くということだ。
一方、芸能界のアイドルから遠い存在を描き出せば、「主人公=著者」という図式を大幅に緩和出来る。だからこそ、「アイドル・高山一実」本人がするわけにはいかない様々な言動を、主人公にさせることが出来る。例えば、こんな感じだ。
『今回は可愛く撮らなくていいんだよ。ボランティアやってるっていう証拠が必要なだけなの。そういう活動してるとさ、なんかいい人っぽいじゃん』
ここまで年寄りたちに囲まれると、いよいよ寿命を吸い取られるのではないかと心配になってくる。
こういう発言・心理描写は、「アイドル・高山一実」には出来ないが、「主人公=著者」という図式が緩和されている本書の中では、「東ゆう」にさせることが出来る。このことは、とても大きな要素だと思う。
しかも、いくら「主人公=著者」という図式が緩和されると言っても、そういう捉えられ方がまったくなくなるわけではない。高山一実は、そのことも実に巧みに利用して、「現役アイドルが書いている」ことのメリットを生み出していく。例えばこういう部分では顕著だ。
なんだろう、この漂う童貞感は。
引いてはいない。むしろ今の自分は達観していて、この年で制服好きを自覚し公言している彼の潔さのほうに違和感を覚えている次第だ。大人になってからふれる機会が少なくなり、そこで制服の良さに気づく、というようなものが悪癖誕生のプロセスだと思っていたのだが、この年から目覚めてしまうとは早めの変態界デビューだろう。
休みの日にボランティア活動をしている派手な顔立ちのキャラなんてギャルゲーには出てこなそうだが、もし仮にいようものならプレイヤーは「俺にもタダで奉仕してくれー!」と叶わぬ願いを叫ぶかもしれない。
こういう描写は、大分踏み込んだなぁ、と僕は感じた。これらも、先程触れたように、「主人公=著者」の図式が緩和されているが故に出来る描写だが、さらに一歩踏み込んでいると僕は感じる。こういう描写は、著者が主人公と同一視されるかどうかという点以上に、「著者=アイドル」という捉えられ方を踏まえたものであると僕は受け取った。「アイドルがこんなことを書くなんて!」という、ある種メタ的な驚きを与える役割を持たせているように僕には感じられたのだ。
著者が現役アイドルであることを知っていれば知っているほど、こういう描写に敏感に反応してしまうし、そしてその反応が、本書の主人公である「東ゆう」の特異さとして読者に認識される、というプロセスが、本書においては自然と成り立っているように感じられる。そしてこういう点こそが、「現役アイドルが書いている」という強みがより発揮されている部分だと感じるのだ。
本書は、東ゆうを中心とした4人の女子たちの関係性を通して、「アイドル」という存在の不可思議さや矛盾を浮き彫りにしていくが、それだけではなく、「アイドル」という生き方が、広く「女性として生きること」としても描かれているように感じられる。「アイドル」に必要なのは「美しさ」だけではないだろうが、しかし「美しさ」という要素が圧倒的に求められる「アイドル」という存在に否応なしに触れることで、登場人物たちは、生きていく上で自分が何を一番大切にしているのかという現実に直面することになる。
高山一実と同じく乃木坂46のメンバーである齋藤飛鳥は、以前雑誌のインタビューでこんな発言をしていた。
「(坂道グループの合同オーディションの希望者向けセミナーで登壇した話を振られて)皆さん乃木坂46に対して憧れの気持ちを持っているでしょうし、加入したいと思ってくれるのはすごく光栄なこと。『そうなんです、我々のグループ、超良いんですよ!』と言いたい気持ちももちろんあるんですけど、それと同じくらい『入ったら人生が変わります。決して楽しいことばかりではないけど大丈夫?』という気持ちもあって。どうしても良いところばかりが見えるかもしれないけど、あまり幻想ばかりを抱いたまま入ってほしくなかったんです」(「日経エンタテインメント!」2018年11月号/日経BP社)
この話は決して、「アイドル」に限るものではないはずだ。自分が憧れをもって目指しているその世界は、決して楽しいことばかりではない。どれだけ華やかで恵まれた世界に見えていても、激しい競争が存在する世界であればあるほど、不快度の増す現実も多いだろう。そういう、どんな世界においても成立しうる現実を、本書では「アイドル」という舞台を使うことによって描き出しているのではないかと感じた。
『それ以来ずっと自分も光る方法を探してた。周りには隠して、嘘ついて。でも自分みたいな人、いっぱいいると思うんだよね。みんな口に出せない夢や願望を持っていて、それについて毎日考えたり、努力してみたり。勉強してないって言ってたのに100点取る人と一緒でさ。
でもそういう奴ってかっこいい』
本書を読みながら頭に浮かんだのは、小説家の朝井リョウだ。朝井リョウと比べたら見劣りするが、自分も他人も恐ろしいぐらいの客観性で冷静に捉える姿勢や、人間の悪意をさらっと凝縮したような鋭いセリフや、人間の本質を抉るような視点などの部分から、朝井リョウ感を感じた。以前雑誌のインタビューで、乃木坂46の伊藤かりんが高山一実のことを「人当たりはいいけど、距離が縮まらない」(「EX大衆」2017年5月号/双葉社)と評していたが、それはきっと、人間を客観的に見て本質を捉えようとする性質から来るのではないかと思う。そういう視点がある限り、今後も人間を鋭く描き出していくことは出来るだろう。
今回で、「現役アイドルが書いている」という強みは十分に発揮したので、次は、その強みが封じられてしまうテーマの小説を読んでみたいと思う。
『トラペジウム』を読みました。
かずみん(高山一実)が小説を書く上で、ディレクターさんというか、担当の方がつくと思います。
で、かずみんの“見た・聞いた・感じた”ことを織り交ぜながら、原稿用紙を埋めていくことは分かるとして。
ただ、肩書が“乃木坂46”ですから、担当の方から表現上の制約があると思います。
読んでいて、結末がある程度読めたし、
「今度の作品、最高です!」とブログに書き込めばいいのかな?
という感じです。
個人的には、氷の溶け始めたアイスコーヒーを飲んだ心境です。
もう少し苦味が欲しかったです。
コメントありがとうございます~。
小説はホントに、「良し悪し」と同時に「好き嫌い」が結構強く出る、と思ってるんですけど、多摩地区在住さんは「良し悪し」の部分がちょっと残念、という感じなんですね?僕は、割とそこはクリアしてるかなぁと思ったんですけどね~。
「現役アイドル」という制約が、創作上どの程度大きく影響したのかは僕らにはなかなか分からない部分ですけど、仮にそういう部分があるんだとしたら、これからも書き続けてもらって、そしてアイドルを卒業したら一気に開放してほしいですね!