乃木坂46の15thシングル「裸足でSummer」で初めてセンターに立つ齋藤飛鳥。その齋藤飛鳥の、センター決定前のインタビューが、「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46 Vol.2」の巻頭に掲載されている。THE齋藤飛鳥、とでも言うべきネガティブ思考が、相変わらず展開されている。
『実際、今はセンターにいないわけだし。逆に“私がセンターになったら、本気で売れると思ってるんですか?”ってみんなに訊きたいです』
「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46 Vol.2」(KADOKAWA)
ちなみに僕は、今回、乃木坂46のシングルを初めて買うつもりだ(1stアルバムは買ってよく聞いていた)。だから齋藤飛鳥の「私がセンターになったら、本気で売れると思ってるんですか?」という問いには、全力で「はい」と答えたいところである。
巻頭のロングインタビューでは、齋藤飛鳥の葛藤が切り取られていく。齋藤飛鳥は常に葛藤している印象があるが、今回はその葛藤がよりくっきりとしているように思う。昨年からの主だった活躍を取り上げてみると、女性誌のモデルから始まり、様々な雑誌への露出、ラジオ番組への起用、グループ内でも福神入りするなど、確実に環境が変化している。それに伴って彼女の葛藤も、より輪郭がはっきりしてきたのではないか、という気がする。
僕はその葛藤に、「自覚」という名前を付けたい。「自身への自覚」と「他者への自覚」である。
『でも、モデルのお仕事を始めてからは、メイクや洋服によって自分であって自分じゃない姿になれることに気付いて、写真を撮られることが好きになったんです。その意識を変えてくれたのはファッション誌やモデルのお仕事のおかげ。』
写真を撮られることへの自覚、みたいなものは、これまでもインタビューの中で語ってきた。彼女の中で苦手だったもの、よくわからなかったものが違った意味付けを持つように変化してきた。モデル、という仕事において、齋藤飛鳥は「自身への自覚」を積み重ねてきたと言えるだろう。
そしてそれは、アイドルという仕事全般に及ぶようになっていく。
『こう言ったらファンの方には申し訳ないですけど、もともとはそんなに自分の人生のなかで乃木坂を大きく考えてなかったから。今ほどいろいろ深く考えて行動してなかったし、でも今はそういうわけにもいかないので。』
僕は、齋藤飛鳥が連続して選抜入りするようになった頃から乃木坂46を好きになった。だから、齋藤飛鳥のアンダー時代のことはよく知らない。選抜に定着してからの姿を見ていると、何故この子がアンダーだったんだろう?と感じる。様々な面でポテンシャルを秘めた存在だと感じるのに、何故アンダーだったのだろう?と。しかし、「深く考えて行動してなかった」と自身が認めているように、意識の問題だったのだろう。どれほど強い武器を持っていようとも、それを意識的に見せていかなければ伝わらない。齋藤飛鳥は、様々な環境の変化と共に、アイドルとしての「自身への自覚」を徐々に身につけていった。そして、あくまでも結果論だが、それがセンターに繋がった。そういうことだろうと思う。
『それまでの私って、ただ流れに身を任せて生きていたので、別にやりたいこともなくて。昔はみんなと一緒にいるのが楽しいから、乃木坂にいるみたいな感じでした』
ちょっと話は脱線するが、少し前何かでこんな話を読んだ。「今の若い人は、学生の頃から働くためのモチベーションや将来のビジョンなんかを求められるから大変だ」と。昔はそういう時代ではなかったし、長いこと働いたり努力したりした結果そういうものって見えてくるものなんだ、という話だった。
齋藤飛鳥のこの話も、まさにそうだろう。彼女は、やりたいこともやる意志もなかったけど、環境に巻き込まれるようにして劇的な変化を遂げた。もちろん、それほどの環境に身を置くのは困難だろうし、良い環境に身を置くためにモチベーションやビジョンを語らなければならないのだ、という事情もあるかもしれない。しかしそれでも、齋藤飛鳥のこの言葉は、働くこと、社会に出ることに悩んでいる若い人の希望になるのではないかとも思う。
さて、「他者への自覚」の話をしよう。
『みんなといると実感するんですけど、私って薄いなって思うんです。特に選抜メンバーは個性が強い子ばかりですし、何をやっても恥ずかしいことにはならない。そういう何事もうまくやる子たちと一緒にいると、“私にはこれがあるから、ここにいられます”みたいな武器がないなって気付かされるんです』
僕は、齋藤飛鳥のこの言葉の中に「他者への自覚」を見る。これは「自身への自覚」に見えるかもしれないけど、そうではないと僕は考えている。
僕の中には、「東京タワー理論」と呼んでいるものがある。それは、こんな経験から生まれた。
学生時代。大学の友達と大学近くを歩いていたら、ビルの間から東京タワーが見えた。なんだ近いんじゃん、ちょっと行ってみようか、というノリで、歩いて東京タワーを目指すことになった。
しかし当然だが、メチャクチャ遠いのである。
知識としては、東京タワーが333mもある凄く高い建物なのだということは知っていた。でも、視界に入ると、小さく見えていることを考慮するのを忘れて、あっ結構近いんだな、歩いて行けそうだなと思ってしまう。でも全然辿りつけないし、近づいたらあまりにデカくてびっくりする。
こういう感覚のことを僕は「東京タワー理論」と呼んでいる。
これは、人間に対してもまるで同じことが当てはまると思うのだ。
知識としては「凄い」と感じている対象(ここで言う「対象」というのは、特定の誰かでもいいし、自分の中の理想でもいいし、誰かから与えられた目標でもいい)があるとする。でも「凄い」と思っていても、視界に入ると(つまり、存在としてまだまだ遠いレベルにいる時は)、案外近いのかも、と思う。近づけるような気がしてしまう。それで近づいてみるのだけど、全然追いつけないし、近づいたら(つまり、存在としての距離が狭まったら)、あまりにデカくてびっくりする。
齋藤飛鳥がここで語っている感覚は、まさにこの「東京タワー理論」だろうと僕は感じている。
『だって自分に自信ないですし。昔はたぶんあったんですけど、年々なくなっていて。単純に自分がいろいろ持っている人だったら、もうちょっと自己評価も高かったかもしれないけど、私のこの感じでどういう考えをしたら自己評価が高くなるんだろうな、っていう感じです』
「昔はたぶんあったんですけど、年々なくなっていて」という実感こそが、まさにその象徴だろう。昔自信があったのは、存在としての距離感がまだまだ遠かったからだ。だから、対象がそこまで離れているようには見えなかった。しかし、少しずつ近付くにつれて、対象の大きさが分かってくる。それにつれて、自信も失っていく。
主に本などで、様々なトップランナーの話を読むと、トップランナーほど謙虚で他者の才能を認めている、と感じることが多い。それはある面では、他を圧倒するだけの地位を築き上げた余裕から来るのかもしれないけど、ある面ではこの「東京タワー理論」から来るだろうと思う。自分が対象に近づけば近付くほど、その対象の大きさが理解でき、その自覚を通じて、自身の立ち位置をより細密に理解することが出来るのだ。
これこそ「他者への自覚」だと僕は感じる。
齋藤飛鳥は様々な場面で、気弱な発言をする。容姿や自分の声に対する評価は、さすがにちょっと自己評価が低すぎるだろう。しかし、そういう目に見える部分ではなく、アイドルとしての意識やセンターに対する意欲など内側に関係する部分について自信がなくなっているのは、悪いことではないと感じる。何故ならそれは、齋藤飛鳥が対象に近づいていることに他ならないからだ。
『逆に自分にないものがいろいろと見え過ぎちゃってる、というのはあります』
自分にないものが見えるくらい、対象に近づけている齋藤飛鳥。対象に近づかなければ決して見えないものがある。見えれば見えるほど奮起する人もいれば、落ち込む人もいる。そういう、見えた時の反応は人それぞれ様々だろうが、他者との違いが自覚できるほど接近しているという事実に変わりはない。そのこと自体は、誇ってもいいはずだ。
齋藤飛鳥はまさに今その場所に立っていて、もがいている。しかし、齋藤飛鳥は結論を急がない。
『だからといって、そういう武器が欲しいかと言われると…必要な時もあるんですけど、でもそういうのって周りから付けていただくものだと思うので。自分からこれをやろう、あれをやろうみたいなことは考えてないです』
これこそが齋藤飛鳥の強さだと感じる。齋藤飛鳥が今いる場所は、彼女の性格にとってはかなり厳しい場所だろう。チャレンジを楽しめるタイプならエネルギーが湧き上がってくる場所かもしれないが、基本的にネガティブな齋藤飛鳥には、答えのない問いが渦巻く辛い場所のはずだ。しかし齋藤飛鳥は、そこを積極的に脱しようとしない。
そこにはこんな考え方がある。
『でも結局、私自身そこまで納得しようと思ってないというか、納得する気がないので、誰かに相談してスッキリしたいとか、自分のなかでこれを解決したいとか考えたことがあまりないですね。だって“納得することってなくないですか、世の中って?”って考えになっちゃうんですよ』
齋藤飛鳥にとって「現実」とは、解釈するものではなく受け入れるものだ。解釈する方が、本当は楽なはずだ。答えの出ない問いに無理やり答えを出し、これが私の武器になるのだと考えて様々なものに飛びつく。そういう生き方の方が、瞬間瞬間は楽なはずなのだ。しかし齋藤飛鳥はそれをしない。現実を解釈しないで、そのまま受け入れる。それは当然、納得とは程遠いものになる。それでも、納得出来ないままのそのモヤモヤしたものを、そのまま受け入れる。齋藤飛鳥には、その度量があるのだと僕は感じる。
齋藤飛鳥は恐ろしくネガティブだ。しかしその土台に、どんな現実も受け入れる強さがある。『たぶんね、何に対しても期待をしたくないんですよ』と語る齋藤飛鳥。もうすぐ18歳というその若さで、どんな経験をすればそんな価値観を持てるのか。外面を見ているだけでは決して分からない、内面の奥底に横たわる強さこそが、他のアイドルが持ち得ない齋藤飛鳥の強みだと感じるし、そういう部分に、僕は強く惹かれる。
『でも、乃木坂に入ってなかったら本当にどうなってたんだろう?きっとヤバいヤツになってたでしょうね』
ヤバいヤツになってたかどうかはわからないが、乃木坂46にいる齋藤飛鳥にとって、自ら築き上げてきた価値観は適しているのかもしれない、とは感じる。現実を丸ごと受け入れ、他者との差を明確に意識し、答えのない問いに答えを出さないまま保持しておける。それは、常に誰かから見られ、万人受けしないと言いながらもより多くの人に好かれる振る舞いを模索し、大人数グループの中で常に差別化が求められる今の環境でその真価を発揮するのではないか。
『私は個人的に“飛鳥はこういうイメージだよね”って決められるのがあんまり好きじゃなくて。
だからこそ、いろんな方面の仕事をさせてもらえるようになって、自分のいろんな面を見せなきゃいけないなっていう意識はより強くなってます』
そう語る齋藤飛鳥は、ますます進化していくことだろう。アイドルとして、そして人間として、どんな変化を遂げるのか。実に楽しみである。
「いろんな面を見せなきゃいけない」と感じている齋藤飛鳥は、本書の中で「齋藤飛鳥、書く。」という連載エッセイをスタートさせた。二回目となる今回のテーマは「女の子」である。
正直に言うと、僕は今回のエッセイは、あまり好きではない。これには二つ理由があると僕は感じている。
一つは、テーマの問題だ。
今回齋藤飛鳥は、自身の握手会に女の子が来てくれることが多くなってきた、ということを思考のきっかけとして、女の子という存在そのものについて思考を巡らせている。そしてそういう中で、自分が女の子に対してどういう感情を抱いているのかを書いていく。
確かに文中には、女の子というものに対する自分の感覚も書いている。しかしほとんどは、女の子という存在そのものについて触れる内容になっている。
これはつまり、テーマが「齋藤飛鳥の外側」に存在していることになる。
前回のテーマは、「齋藤飛鳥について書いてみる。」だった。まさに、齋藤飛鳥自身のことについて触れた文章だった。テーマの良し悪しは完全に僕の個人的な趣味なのだが、やはり僕は、齋藤飛鳥が自分自身について掘り下げる文章の方が好きだ、改めてそう感じる。他者の観察を通じて自分の内面を捉える、というやり方ももちろん出来るし、齋藤飛鳥にはその能力はあると思う。しかし、僕の印象では、齋藤飛鳥はまだ、他者の観察を通じて自分の内面を「言葉で表現する」ということに長けていないのではないか、と感じた。
自分自身についてのことであれば、捉えかつ言葉で表現するということは、実際に文章にするかどうかはともかくとして昔から続けてきただろうと思う。しかし、他者についてとなると、感覚的に捉えることはあっても、それを文字化する経験には乏しいのではないか、と感じた。
そして、だからこそ(で繋げるのはおかしいかもしれないが)、齋藤飛鳥には他者を捉える文章を書いていって欲しいと感じる。その試みは、うまくいかないかもしれないが。
僕自身の感覚で言えば、今回のエッセイはあまりうまく行っていないと感じる。しかし、人に見られる場で文章を書き続けることで、文章というのは変わっていく。この「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46」は、一冊丸ごと乃木坂46の特集なわけで、ある意味ではホームと言える。そのホームで試行錯誤を重ねて欲しいな、と思う(齋藤飛鳥はきっと、うまくいっていない感じを他人に見せたくない人だろうから、そういう意識は許容出来なそうだけど)。
そして二つ目の理由は、文章の論理展開だ。これは純粋に、文章の技法というか、書き方の問題だ。
ところどころ僕は、文章の繋がりが理解できない部分があった。
ある箇所では、「こういう人が好き」という話を書いたあとで、逆説の接続詞がないまま、「そういう人の考え方はちょっとダメだよ」と書く。結局その箇所では、何が結論だったのかイマイチわからなかった。
ある箇所では、ある行動に対して「難しいよ!」と言ったあとで、そういう行動をする人を「可愛い!」と評す。それ自体はいいのだが、「難しいよ!」から「可愛い!」への変化に一体何があったのか、もう少し書いて欲しいな、と感じた。ちょっと飛躍しすぎているように思えてしまう。自分でもきちんと理解しきれていないということは伝わるのだけど、全体的に出てくる価値観が突然、という印象を受けてしまった。
ある箇所では、「女性の偽る力」の話をした後で、そのままの流れで「ライバル心」の話になる。「偽る力」から「ライバル心」へと移行する部分の繋がりが理解し難いと感じた。
もちろんこれらは、すべてわざとやっているという可能性もある。演出なのかもしれない。あるいはこれは無意識の行為であり、こういう理路整然としていない部分にこそ齋藤飛鳥の文章の魅力が潜んでいるのかもしれない、と捉えることも出来るかもしれない。文章は、当然論理だけではない。まったく論理的じゃないけど、なんか惹きつけられる文章、というのも存在する。齋藤飛鳥は、その境地に至る道半ばであって、この方向を突き進むことで齋藤飛鳥独自の文章が確立されていくのかもしれない。もしそうだとすれば、僕のこの意見は、齋藤飛鳥の才能を潰す方向にしか働かないだろう。
出版物には必ず編集者がいて、編集者の目を通る。編集者がこういう部分をスルーしたまま掲載しているということは、編集者はここにこそ齋藤飛鳥の魅力があると分かっているのかもしれない。こういう部分を指摘せず自由に書かせることで、齋藤飛鳥の文章を伸ばそうとしているのかもしれない。
いずれにしても、僕が今回のエッセイを読んで感じたことは、「この『齋藤飛鳥、書く。』の場で、とにかくやれるだけのチャレンジをして欲しい」ということだ。結果的にそれが成功しなかったとしても、「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46」というホームでしか出来ない実験があると僕は思う。圧倒的な才能を生まれながらに持っている人以外は、文章は書いて書いて書きまくることでしか上達しない、と僕は考えている。だから僕は、齋藤飛鳥には「齋藤飛鳥、書く。」で、それまでの自分の手数にはないもので戦って欲しいと感じる。それこそが、「アイドル・齋藤飛鳥」ではなく「文筆家・齋藤飛鳥」に至る最短距離だと僕は思う。
関連「乃木坂らしさ」に潜む罠~「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46 vol.2」後編~
※本稿は筆者のサイトに投稿した記事を再編集したものです。
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