乃木坂散歩道・第112回「『死』というフィルターを通して見る」

 「気づいたら片想い」のMV、ラストシーンで僕は涙を流しました。

 MVの台詞だけを抽出してしまうと、正直、ありきたりとさえ言える言葉です。
 「死ぬ気で頑張る」
 「みんなに出会えて良かった」
 「このメンバーの一員になれて良かった」
 「乃木坂46に入って、みんなと会えて良かった」

 言葉だけ見れば、公式ブログにでも書かれているような内容です。それなのに何故、涙を流してしまうのでしょう?
 それは、『死』というものが僕たちに与える影響が大きく関与しているからだと思うのです。『死』を意識した時、『死』というフィルターを通して物事を見る時、言葉には重み、深みが増すのです。

https://www.youtube.com/watch?v=0hKhqaJNuWU

 僕がこのMVを見た時に一番最初に思い浮かんだのは、一度だけ死者と会う事が出来るという連作小説「ツナグ」(辻村深月著)です。この小説で描かれていることは、『誰かに想われること』、『本当のやさしさとは』、『後悔』、『誰かを想うとは』。普通に語ろうとすれば薄っぺらい陳腐なものになってしまいがちな難しい話題を、『死者に会う』という虚構の設定を用いることで、鮮やかに描き切っています。『死というフィルター』を使った作品の一例です。

 では何故、『死というフィルター』は言葉に重みを与えるのでしょう? それは、僕達が『死』に対する本能的で克服不可能な脅威を覚えているからです。生命における唯一絶対の真理は、必ず死を迎えるという事です。なので、死は身近な存在であるはずです。しかしながら、僕達は『死』を経験することが出来ません。正確に言うなら、『自分の死』という経験を次に生かすという事が出来ません。
 僕達は学ぶ生物です。色々な経験を重ねて成熟していきます。唯一経験できないこと、でも、必ず訪れるもの、それが『死』です。だから、命あるものにとって、とてもとても特別な存在が『死』なのです。

「それでも日々は 淡々と過ぎてゆく」

 この言葉は僕の大先輩から言われた言葉です。自惚れるなという戒めの言葉としていただきました。「お前が今日、突然仕事を辞めたとしても、それでも、次の日には組織は何事もなかったかのように動き続けるだろう。お前の存在はその程度のもの。自惚れず、日々精進しなさい」、そういう意味です。

 先日、僕の後輩が亡くなりました。あまりに突然のことでした。頑張り屋で、真面目で、まわりのスタッフからの信頼も厚い女性でした。何度も何度も仕事で助けられたことがありました。「仕事を増やして申し訳ない」と言うと、「全然、全然、大丈夫です」って言う娘でした。
 そんな彼女がいなくなって、それでも、日々は淡々と過ぎていきました、組織として何一つ滞りなく。その現実が僕は悲しかった。

 「気づいたら片想い」のMVが解禁されたのは、彼女の訃報のすぐ後でした。だから、重ね合わせて見てしまったのかもしれません。今の西野七瀬さんという存在は、もしも、いなくなってしまったなら……、たぶん、乃木坂46は組織として機能しなくなりますよね。ラストシーンのメンバーの涙、あの光景に僕はそう感じたのです。

 
 8thシングルのアンダー楽曲「生まれたままで」のMVでは、『問題なのは あまりに長い 命の残り』なんていう歌詞があるように、未来への希望にあふれています。若さあふれる眩しい輝きに満ちています。例えるなら「朝陽」。
https://www.youtube.com/watch?v=oa9ms7PoD2w

 対照的に「気づいたら片想い」のMVは、自分の『死』を自覚した最期の煌めき。そこにあるのは儚さ、切なさ。例えるなら「夕陽」。

 本来、朝陽のような存在であるはずの乃木坂メンバーが演じる夕陽。これから輝きを増していくだけの朝陽でなければいけない存在が、実はもう残された時間が少ない夕陽であることの儚さ。僕の涙は、その儚さへの涙だったと思うのです。

筆者プロフィール

Okabe
ワインをこよなく愛するワインヲタクです。日本ソムリエ協会シニアワインエキスパートの資格を持ちます。乃木坂との出会いは「ホップステップからのホイップ」でした。ファン目線での記事を書いていきたいと思います。(ツイッター「Okabe⊿ジャーナル」https://twitter.com/aufhebenwriter

COMMENTS

  1. 「生まれたままで」の、特に『問題なのはあまりに長い命の残り』という部分に対し
    自分はまったく真逆の印象を抱いていました。
    寿命で死ぬには長く平坦で、まるで死んでいるかのようなただ生きているだけの人生。
    『望み少ないあの夢』を叶えるにはあまりにも可能性が薄く、その絶望的な人生に向けて
    誰にも聞こえないよう『鉄橋の真下で 電車が通過するとき 大声で叫んだ』のだと。

    たとえば大きな震災で急に父親が亡くなり(歌詞には父親の姿は出てきません)
    それまで悠々と学校に通い、夢に向かって歩んでいけるだろうと思っていたのに
    学校を辞めて母親を支えながら生活しなければならなくなったとしたら。
    そんな悲惨な人生がある傍らで、定刻に帰れるような普通の生活もたくさんある。

    自分にはそういうふうに、『死』のフィルターを通して聞こえます。

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