2015年に公開された映画『悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46』(以下、『悲しみの忘れ方』)は、個人的な意見で言えば、「乃木坂46の映画」というより「アイドルのドキュメンタリー映画」だった。『悲しみの忘れ方』の公開時、あるいは、その映画に収録されていたような頃は、乃木坂46というものがまだ世間的に今ほど飛躍していない時期だった。僕自身、乃木坂46のファンとして『悲しみの忘れ方』を観たわけではなかった。そういう僕個人の関わり方も関係しているかもしれないが、『悲しみの忘れ方』は、乃木坂46という存在に興味がない人でも関心を持って観ることが出来る映画だったと思う。
4年ぶりとなる第2作『いつのまにか、ここにいる Documentary of 乃木坂46』は、そういう前作との対比で言えば、「乃木坂46の映画」だと思った。もちろんこれは、乃木坂46に詳しくないと関心を持って観られない、という意味ではない。この映画の監督自身も、モノローグ調のテロップで、「アイドルについてはまったく知らなかった」と言っている。そんな監督が、メンバーの関係性も一切分からないまま撮影をしていった映画であるので、乃木坂46に詳しくなくても観られる映画ではある。しかしやはりこの映画は「乃木坂46の映画」だと思った。
この映画を撮る難しさを、岩下力監督はプロローグでこんな風に表現していた。
『アイドルドキュメンタリーの面白さは、少女たちの成長物語だ。
しかし乃木坂46は、すでにスターになってしまったプロ集団だ。
すべてがうまく行っているように見える。
何を映画に撮ればいいのか分からなかった。
仕事を断りたいとさえ思った』
その感覚については、僕も同感だ。乃木坂46のドキュメンタリー映画第2弾が公開されるという情報を知って最初にそのことが思考に上った。一体、何を描くんだろう?今の乃木坂46の、何を切り取ったら映画になるんだろう?と。そこここに物語はある。しかしそれは、割と世間一般に既にさらけ出されている物語でもある。メンバーのネガティブ的な部分については、前作で存分に切り取られている。レコード大賞受賞や紅白出場、生田絵梨花のミュージカル女優としての軌跡や、舞台やラジオやモデルで活躍するメンバーの存在、卒業生がアナウンサーとなり、女優となり、それぞれのステージで活躍している。そういう物語は、乃木坂46のファン以外の層にも、ある程度視覚化されてしまっている。
そういう中で、映画として提示すべき物語をどこに見出すのか。
ある意味でそれは、メンバー自身の疑問でもあったようだ。監督は撮影中メンバーから「撮影側の心配をされた」と明かしている。こんなんで、映画になりますか?と。齋藤飛鳥は、個人的な観光旅行の場面を撮られている中、同じように「観光なんか撮ってて映画になるんですか?」と聞いていたという。
監督の、「仕事を断りたいとさえ思った」という感覚の一番大きな部分は、この点にあっただろう。
しかし監督は、恣意的に物語を設定しようとしなかった。映画のパンフレットの中で、監督はこう書いている。
何を撮ろうかは決めずに撮影に入りましたが、事前に決めていたことがあります。それは、仕事で撮影をする者という以上に「人として近づく」という意識を持つことです。なので、こういう言葉がほしいという圧を加えるようなことはしませんし、メンバーと話をする中でカマをかけたり、被写体の真意を捻じ曲げたりするようなこともしません。(中略)「この時間は貴重だから、絶対に記録しておくべきだ」と感じた瞬間だけ、カメラを回しました。
(映画『いつのまにか、ここにいる Documentary of 乃木坂46』パンフレットより)
この点については、まさに監督にオファーをした理由そのものだったそうだ。同じパンフレットに載っている、乃木坂46映像プロデューサーの金森孝宏氏はこう言う。
岩下さんが最高なのは、メンバーに対して意思を誘導するような聞き方や撮り方を極力しないということです。(中略)メンバーは若くて、考え方は日に日に変化している。その変化一つひとつに大げさなリアクションや結論を出さないで経過観察するんです。(中略)その上品な作り方は乃木坂46に合っていると思いました。
(映画パンフレットより)
そんな風に、メンバーのことは誰も知らず、そもそもアイドルにもまったく詳しくない監督が乃木坂46に密着する中で見えてきたもの。それは「失恋」だった。
この「失恋」という捉え方には、2つの大きな要素が関係している。一つは、「乃木坂46の仲の良さ」、もう一つは「アイドルの卒業」だ。
監督はまず、乃木坂46の異常な仲の良さに着目する。メンバー自身も、「気持ち悪いですよね?」と自虐的に言ってしまうぐらいで、映像の中では、メンバー同士がひっついたりハグしたりしている場面が随時捉えられている。「B.L.T.」9月号の中で、齋藤飛鳥と与田祐希はこの映画を見てこんな発言をしている。
齋藤「(メンバー同士の仲が良すぎて)ちょっとコワいよね(笑)。みんなひっつくし」
与田「(前略)“こんなに私、人にくっついているんだ”と思って、びっくりしました(笑)。乃木坂だからなんですかね、乃木坂の空気でそうなるんですかね」
(「B.L.T.」2019年9月号/東京ニュース通信社)
同じく岩下監督も、こう発言している。
ホントに裏表のない、正直な人たちだったので。最初からそう聞いてはいたんですけど、ホントかなって思っていたら、ホントにそうでした(笑)
(前掲「B.L.T.」)
こういうのは、まあ正直なところ、僕ら一般人には本当のところは分からない。良い部分だけ切り取って見せている可能性だって常にあるし、イメージを守るためにそういうことにしてるってこともまああるだろう。僕は男だから、映画の中の彼女たちの振る舞いを見ていてもその辺りの判断は出来ないけど、まあでも、僕が見ている限り、本当に仲が良さそうだなぁ、とは思う。仲が良いというか、「Noを共有出来そうだな」といつも思っている。積極的に関わらなくても価値観が合わなくても同じ一つの空気感でまとまれる、というような雰囲気を乃木坂46から感じることがあって、そういう部分が強いなと思う。
そう思わされる一番の理由は齋藤飛鳥の存在で、彼女はやはりこの映画の主役の一人である。齋藤飛鳥という人間を許容できる、という雰囲気が、乃木坂46というグループを強く見せているなぁ、と感じるのだ。しかし齋藤飛鳥についてはまた別の機会に触れよう。
そんな仲の良さを目の当たりにした監督は、これを描くことに決める。
じゃあもう、この人たちが織りなす大胆不敵なラブストーリーにしよう、この人たちが見せてくれる愛の物語をそのまま丁寧に編んでいけばいいんだって思いました。
(前掲「B.L.T.」)
そういう描かれ方の中心になったのが、西野七瀬だ。
この映画の撮影期間中に、西野七瀬が卒業を発表した。誰も、西野七瀬から事前に話を聞かされなかった。西野はこう言う。
『自分が卒業しても、涙を流してくれる人なんて誰もいないだろうと思ってた。寂しいって思ってもらえるのって嬉しいんだなって。寂しいとか思ってもらえる存在だと思ってなかったので』
だから誰にも話さなかったという。そして、「乃木坂46の仲の良さ」に、西野七瀬の「卒業」という要素が加わることで、物語は「失恋」のトーンになる。
監督のモノローグ(テロップ)で、こんな言葉が出てくる。
『(卒業による別れは)失恋に近いのではないかと思った。
だとしたら、あんなに近くにいたのに、と絶対苦しむ』
誰もが、西野の卒業を知り、涙する。そしてそれぞれの言葉で、西野の卒業や、アイドルの卒業について語る。
・桜井玲香
『このグループに引き止められているのは、思い出とか好きな子がいるからとか、そういうものが大半になっている』
・山下美月
『乃木坂46が変わってしまうのは嫌。永遠に誰も卒業しないでほしい』
・大園桃子
『大好きな先輩がいつか卒業するって思ったら耐えられなくないですか?会えないことに強くなる必要、ありますか?』
・高山一実
『過去のことを考えても、未来のことを考えても切ない』
・秋元真夏
『卒業って形、無くさない?って思ったことは何度もあります。乃木坂46は実家みたいなもので、いつでも戻ってこられる場所、みたいに出来たらいいなって』
生駒里奈が卒業した後、乃木坂46の支柱と言っていい存在となった白石麻衣と西野七瀬。その一角が卒業するという衝撃は、乃木坂46を大きく揺さぶる。乃木坂46合同会社代表である今野義雄氏も、
西野をどのように送り出すかというのは、僕たちにとって大きなミッションでした。西野の気持ちを考えたのはもちろんでしたが、残されたメンバーの気持ちも考えないといけません。西野の卒業を契機として、自分の卒業のことを考えるかもしれませんから、グループにとっていろいろな形で影響を与える出来事でした。
(映画パンフレットより)
と語っている。
メンバーやスタッフからそれほど強く認識され、卒業という報がやはり激震を巻き起こすこととなった西野七瀬は、「乃木坂46にいた期間は、全人生の中で唯一そこだけキラキラしている大切すぎる部分」と言った上で、「第69回NHK紅白歌合戦」を終え年越しした後にこんな風に語っている。
『こんなに清々しく、晴れ晴れしい気持ちで新しい年を迎えられるとは思っていませんでした。最高の2018年でした。(中略)私は、起こった出来事について「こうなるべきだったんだろうな」と思うタイプなんです。乃木坂46って本当に良い流れの中にいますよね。そしてその大きな流れの中に、自分もいられたことが、凄く嬉しい』
「卒業」という形で乃木坂46に変化を与える者がいる一方で、変化し続ける乃木坂46での活動を通じて自身の変化に気づく者もいる。大園桃子は、「アイドルとしてではなく、素の自分を見せている」と、ライブリハーサル合間のインタビューで語っていた。アイドルとしてどうあるべきかではなく、素の自分を晒すことで、彼女は結果的に「アイドルに向いていない」という感覚を強めることになる。しかし、「第60回『輝く!日本レコード大賞』」でのパフォーマンス終了後、非常に印象的な場面があった。
『なんか、乃木坂も悪くないなって思った。こんなに素直に思ったのは初めてかもしれない』
そう言って、泣きながら齋藤飛鳥に抱きついた。この大園の言葉が、この映画の中で一番印象的な言葉だった。こういうことを、他にもたくさんメンバーがいて、カメラも回っている場面で素直に言えてしまう。そこに、大園桃子という人間の素直さと、乃木坂46という許容力が詰まっているように感じられて、凄くいい場面だと思ったし、言葉としては一番印象に残っている。これもまた、乃木坂46の「愛」の物語と言っていいだろう。
長期密着によって、アイドルに無知な監督が捉えた「異常な仲の良さ」という「異質さ」が、アイドルの頂点に上り詰めたと言っていいだろう乃木坂46の核である。そのことを様々な場面から感じさせてくれる、独特の見応えを感じさせるドキュメンタリー映画である。
僕が乃木坂46のファンになった日~映画「悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46」~
憧れを持たない正直者・大園桃子
私自身の個人的な感想では、黒夜行さんとは反対に前作の方が「乃木坂の映画」で今回の方は「アイドルのドキュメンタリー」だと感じました。
これは、私が前作公開時に既にどっぷりと乃木坂ファンだったから、という違いもあると思います。
黒夜行さんが他のアイドルのドキュメンタリーをどれくらい見ているのか分かりませんが、48グループをはじめとしてドキュメンタリーを公開しているアイドルはいくつもあって、一応少しはそれらを見た人間の感想で言えば、「悲しみの忘れ方」はかなり特異な作品だった、というものでした。
それと比較するなら、今作「いつのまにか、ここにいる」はオーソドックスなアイドルのドキュメンタリーだという感じでした。もちろん、作品の評価という次元の話ではなく、対象へのアプローチの仕方や映像表現の手法について、ということです。
もし、この映画に特異性を感じたなら、それは対象である乃木坂46が特異な存在だからではないか。それが私の感想です。
ちなみに、私は今回のドキュメンタリー映画はとても良かったと思います。「制服のマネキン」のシーンではゾクゾクッとしましたし、何度か見ましたが毎回違うシーンで泣きそうになります。良い映画、です。
コメントありがとうございます!
最近雑誌のインタビューで、秋元真夏も同じようなことを言っていました。僕は、乃木坂46を知るまであんまりアイドルに関心はなかったし、その後も欅坂46にちょっと関心があるくらいで、アイドル全般のことは知らないんで、やっぱりそういう立ち位置だからこそ違った風に見えるんだろうなぁ、と感じました。
「悲しみの忘れ方」が特異な作品だというのは理解しているつもりですけど、僕には他のアイドルグループとの比較がちゃんと出来るわけではないんで、やっぱりそれが、「乃木坂46の特異さ」から生まれてるんだという指摘は、ありがたい感じします。
今回のドキュメンタリー映画も、良かったですよね!監督のアプローチも、メンバーの良さを引き出すのに最適だったな、と思いました~