僕にとっての乃木坂46の魅力の一つに、「ネガティブさ」がある。僕の中の「アイドル」というイメージを超えて、彼女たちは「ネガティブ」な自分を見せる。全メンバーがそういうわけではないが、乃木坂46にはそういうメンバーが多いような印象を僕は持っている。
「ネガティブさ」は、言葉を生む。
穂村弘の「蚊がいる」(KADOKAWA)というエッセイがある。その巻末で、又吉直樹との対談が収録されているのだが、穂村弘がサッカー部に所属していた又吉直樹に対して、こんな風に言う場面がある。
『僕はそこが謎で。たとえば運動ができないとなぜできないかを考えると思うんです、言葉で。できるヤツは言葉要らないんですよ、できるから。モテるヤツ、運動できるヤツ、楽器弾けるヤツはそれでコミュニケーションできるから言葉を必要としない。だから意外で、サッカーができたのに、なぜ本を読む必要があったんだろうって』
「できるヤツ」は言葉を必要としない。その通りだ、と僕も思った。「できない」というネガティブな葛藤を抱える人間だからこそ、言葉を取り入れ、言葉で思考し、言葉で生きていくのだというのは、僕の実感としてもある。
だからこそ、乃木坂46のメンバーの言葉には力があるのだ、と僕は感じる。
僕は、テレビ(乃木坂工事中)と雑誌でしか基本的に乃木坂46を知らない。だから、選抜に入らないメンバーについてはあまり知る機会がない。寺田蘭世は、今回の17thシングル「インフルエンサー」で初めて選抜メンバーに選ばれた。だからだろう。最近雑誌のインタビューで、寺田蘭世をよく見かけるようになった。
寺田蘭世については、ほとんど知らない状態ながらも、言葉の強さが印象に残るメンバーだと思っていた。時折視界に入る彼女の言葉や、本を読んでいるというイメージから、そんな強さを感じていたのだろう。
そしてやはり、寺田蘭世の言葉は強いなと、雑誌でのインタビューを読む度に感じるようになった。
『常にネガティブなので。』(「BRODY」2017年4月号/白夜書房)
寺田蘭世は、自身のことをそう語る。なるほど、やはり「ネガティブさ」が彼女の言葉の強さを生んでいるのだ、とこのインタビューを読んで改めて感じた。
しかし。このインタビューは僕に違和感ももたらした。
寺田蘭世の言う「ネガティブ」とは、一体何なのだろう、と。
先程僕は、「できない」という考えが言葉を生むのだ、と書いた。そしてその、「できない」と思ってしまうことそのものを指して「ネガティブ」と言うのではないか。僕は漠然と、「ネガティブ」というものをそんな風に捉えていた。
乃木坂46の他のネガティブなメンバーの印象も、大体それに近い。僕の中では、齋藤飛鳥や西野七瀬はネガティブなメンバーであり、彼女たちの思考からは、「できない」という諦めみたいなものを感じる。もちろん、そう感じてしまったところをスタート地点として、その「できない」をいかに乗り越えていくのか、という葛藤を繰り返すことで彼女たちは成長してきたのだろう。そこにはきっと言葉の力や支えがあっただろうし、だから「ネガティブさ」が彼女たちにとってただマイナスだったわけではない。そういう風に感じていた。
しかし、寺田蘭世からは「できない」を感じられないのだ。
『常に負けず嫌いだし、褒めて伸びるんじゃなくて、挑発されたほうがスイッチが入るタイプなので。
―誰が挑発するんですか(笑)。
今はもうないですけど、コンサートのリハで怒られてばかりだったんですよ。右も左もわからない研究生時代だったのに、誰も助けてくれなくて。でも、心が折れるんじゃなくて、私は燃えたんですよ!面白いじゃんと思っちゃって!みんな泣いてて、私も涙は出ているんだけど、「面白い!」と思ったので。』(前出「BRODY」)
この発言からは、「できない」を感じることが出来ない。もちろん「私も涙は出ている」と書いているので、何らかの感情はあったのだろう。しかしそれはきっと、「できない」ではないのだろうなと、この発言からは感じられる。
『私は加入当初から「センターになりたい」と言わせてもらってきたんですけど…』(前出「BRODY」)
これは、寺田蘭世が選抜メンバーに選ばれる以前からよく目にしていた発言だ。選抜に入る前の寺田蘭世に対する僕のイメージは、「言葉が強い」と「センターを目指している」の2つだったと言っていい。それぐらい彼女はそう繰り返し発言している。この発言からも、「できない」を感じることが出来ない。
寺田蘭世の「ネガティブさ」が、どこにあるのか、僕にはなかなか見えない。
色んな可能性を考えることが出来る。
まず、自分で「ネガティブ」だと言っているが、本当はそうではない可能性だ。しかし、恐らくそれはない。それはこんな発言からも分かる。
『だからメンバーにもスタッフさんにも、「もっとポジティブになれ」って言われるんです。去年の誕生日はみんなからそう連絡が来て(笑)。』(前出「BRODY」)
少なくとも、寺田蘭世の周囲にいる人間は、彼女の「ネガティブさ」を感じとっているようだ。感じとっているどころではなく、誰が見ても明らかなほどネガティブなのだろう。こんな風にも言っている。
『コンサートのリハーサルでも常に斜め下を向いてて。カメラを見ることができなくて。リハーサルだと私は恥ずかしさが勝っちゃうんです。』(前出「BRODY」)
これも、彼女の「ネガティブさ」の発露なのだろう。
寺田蘭世が誰が見てもネガティブなのだとすれば、考えられることは、彼女が意識的にそれを隠している、ということだろう。いや、ネガティブである、ということは言っているわけだから、ネガティブであること自体を隠しているという意味ではない。そうではなくて、ネガティブさがあることを認めた上で、少なくとも対外的にはそのネガティブさが存在しないように振る舞っている、ということだ。
『アイドルってそういうものじゃないですか。私たちが頑張っている姿を見て、ファンの方も頑張ろうと思うから成立しています。だから、私もそういう存在になれたらいいなっていう意味を込めました(※武道館での、モハメド・アリの名言を意訳した発言に対して)。』(前出「BRODY」)
自分の中には「ネガティブさ」が横たわっている。しかし、アイドルというのは「ネガティブさ」を全面に出すような存在ではない。自分の努力が誰かの努力に繋がるような、そういう存在だ。だから自分の「ネガティブさ」が表に出ないように意識しよう。そう考えているのかもしれない。
そうだとすれば、齋藤飛鳥や西野七瀬とは違うアプローチを取っていることになる。彼女たちには、自らの「ネガティブさ」を隠すつもりはない。表に出すことのデメリットまで認識した上でそれを晒し、その状態で受け入れてもらえるように長い時間を掛けてきた。寺田蘭世はそうではなく、「ネガティブさ」を抱えた存在として受け入れられることを拒絶し、ネガティブであることを表に出しながらポジティブに振る舞うことで、アイドルという存在にしか伝えられない何かを伝えようとしている、という解釈は成り立つ。
しかし、それもまたイメージに合わない。時折テレビで見かける寺田蘭世は、特別ネガティブでも、特別ポジティブでもないように見える。また、『ネガティブだからこそ成立しているところもあるんですけど』という発言からも分かるように、アイドルだからと言って自分の「ネガティブさ」を否定的に捉えている様子もない。
だから結局こんな風に考えるしかない。寺田蘭世にとって「ネガティブさ」は、常に取り込んでは体内に保持しておかなければ動けなくなってしまうようなものなのだ、と。
『「覚えとけよ~!」っていうのが私の原動力なのかな』(前出「BRODY」)
「ネガティブさ」が寺田蘭世を動かしている。彼女にとって「ネガティブさ」は、隠すものではなく、そもそも内側にあって当然のものなのだ。それが自然体なのであり、取り除いたり隠したりするために何かするような、そういう対象として捉えていない。そういうことなのだろう。
そしてその背景にあるのは、寺田蘭世のこんな考え方なのだろうと思う。
『私、満足することは死ぬまでないだろうっていうスタンスで生きてるんです』(前出「BRODY」)
この発言から、僕はこんなことをイメージした。
寺田蘭世は、「満腹」になることに対する恐怖がある。その恐怖がどのように寺田蘭世の内側に芽生えたのかについて興味はあるが、それは分からない。しかし「満腹」に対する恐怖が常にあって、何らかの形で自分が「満腹」になることを妨げるものがなければ安心できない、と考えている。そのための対処法が、彼女にとっての「ネガティブさ」なのだ。つまり彼女にとって「ネガティブさ」というのは、取り込むことによって「満腹感」を妨げるようなものなのだろう。「ネガティブさ」は寺田蘭世の原動力ではあるが、それは燃料や栄養とは違う。自分の内側にある「満腹感」を妨げるための薬のようなものなのだと思う。
そう考えると、次の発言も理解しやすくなるのではないかと思う。
『(選抜に選ばれた瞬間について)いつ呼ばれてもいいっていう心の準備ができていた時期だったから、自分で感情をセーブすることができたんです』(前出「BRODY」)
僕も、寺田蘭世が選抜に選ばれた瞬間の彼女をテレビで見た。非常に落ち着いていた。「満腹感」に対する恐怖として「ネガティブさ」という薬を常に取り込んでいる、と考えると、寺田蘭世のあの振る舞いも、理解しやすくなる。
寺田蘭世について考えることで、「ネガティブさ」にも多様性があって面白い、と感じた。例えば齋藤飛鳥の「ネガティブさ」は、「こだわりを持たない」という生き方のスタンスを生んでいる。
『私、なんに対しても“こだわりを持つ”ってことが好きじゃなくて。もちろんいい方向に進む努力はしますけど、なるようになってくれればいいし、私は絶対にこうなりたいって夢は持ちたくない。周りにも、あんまり期待はしたくないんです。そのほうが、私的にはいい意味で楽なんですよね』(「Graduation2017 高校卒業」/東京ニュース通信社)
齋藤飛鳥の場合、「ネガティブさ」が先に存在する。自分の内側にどうしても巣食ってしまう「ネガティブさ」を押さえ込むために、「こだわりを持たない」という生き方のスタンスを選択している。自分の努力によって未来を掴むのではなく、努力はもちろんするが結果として目の前に現れた現実を受け入れることで、自分の努力と未来を切り離し、「ネガティブさ」に囚われないように意識している。
寺田蘭世の場合、僕の解釈では、「満腹感」への恐怖が先に存在する。その処方箋として「ネガティブさ」があるのだ。「満腹感」への恐怖は、「食べる」という行動なしには生まれ得ない。だからこそ寺田蘭世は、センターを目指すというような大きな目標を持ち、それに向けて努力する(=「食べる」)という行動を取る。しかし「満腹」にならないように「ネガティブさ」もきちんと処方する。そのバランスの中に、寺田蘭世というアイドルは存在している。
『私は鈍感だし、気にしないんです。何を言われても、「いや、私は私なので」っていう感じなので(笑)』
『だから、人の意見にも左右されません(笑)』(前出「BRODY」)
「ネガティブさ」からは程遠いように感じられるこれらの発言も、「ネガティブさ」が「満腹感」への処方箋だ、と捉えれば分かる。寺田蘭世の中には、「満腹を目指すベクトル」と「満腹を避けるベクトル」の両方が存在する。「満腹を避けるベクトル(=「ネガティブさ」)」は、基本的にはブレーキなのだ。だから、時々しか顔を出さない。寺田蘭世にとってのアクセルは「満腹を目指すベクトル」であり、だから彼女の発言には、そういう方向のものが多くなるのだろう。
自分でこうして文章を書いてみて、やっと寺田蘭世のことを少し捉えられるようになったように思う。この文章を書き始めた時は、【「満腹感」に対する処方箋としての「ネガティブさ」】という概念はまだ持っていなかった(書きながら考えた)ので、この概念を自分の思考の中から取り出せた満足感がある。
ここまで読んでくれた方にある「寺田蘭世像」とは、どの程度当てはまるだろうか?
さて最後に、数学の話をしたい。というのもこのインタビューの中で、寺田蘭世がこんな発言をしているからだ。
『みんな、枠にはめようとするじゃないですか。私はそれが嫌いで。決まりきったことの象徴が数学なんです』『だから、人の意見にも左右されません(笑)』(前出「BRODY」)
この記事を寺田蘭世が目にする可能性は低いと思うが、それでも僕は、寺田蘭世の中の「数学」の概念を変えたくて、以下の文章を書く。
(以下の文章は、「僕がそう思っていること」だ。詳しく調べながら書いているわけではないので、僕自身の認識の誤りなどはあるかもしれない。その点を踏まえて読んでほしい)
僕は、数学ほど自由な学問はない、と考えている。その理由を、いくつかの例を示しながら書いていこうと思う。難しい話はしないつもりなので構えず気楽に読んでほしい。
まず、「数学には決まりきったことなどない」ということを示すために、「ユークリッド幾何学」についての話を書く。「ユークリッド幾何学」について詳しいことは書かないが、「ユークリッド幾何学」には、それを構成する大前提となる5つの「公準」と呼ばれるものが存在する。
1.2点を直線でつなげる
2.有限直線を好きなだけ延長できる(※線分は、どこまでも長く出来る、という程度の意味)
3.任意の点と距離に対し、その点を中心としその距離を半径とする円をかける(※点が一つあれば、その点を中心に円が書ける、ぐらいの意味)
4.直角はすべて等しい
5.平行な二直線は交わらない(平行線公準)
用語が難しい部分もあるだろうが、言っていることはどれも当たり前だと感じられるだろう。「ユークリッド幾何学」は、この5つの当たり前を大前提として成り立っている。
ユークリッドというのは、紀元前3世紀頃の数学者だ。それから2000年以上の間、数学者はこの5つの「公準」を正しいものと考えてきた。
しかし、5つ目の「平行線公準」だけは、長いこと議論の対象だった。これだけは、うまく証明することが出来なかったからだ。そこでこんな風に考える数学者が現れた。
「平行線公準を満たさない幾何学も存在するのではないか?」
そうして、「非ユークリッド幾何学」というものが生まれた。これは、「ユークリッド幾何学」の前提となる5つの「公準」の内、最初の4つは満たすが、最後の「平行線公準」だけは満たさない。つまり、「平行な二直線が交わる」ことを前提とした幾何学なのだ。
この一例だけ見ても、数学が「決まりきったもの」という印象を払拭できないだろうか?
数学には、確かに様々なルールがあるように見える。実際にあるのだけど、しかしそれは「数学という学問」が押し付けてくるルールではない。数学の様々なルールは、人間が決めている、と言っても言い過ぎではない。何故そう決めるのかと言えば、「そういう風にルールを決めると良いことがあるから」だなのだ。
寺田蘭世は、昨年末の武道館公演で『1+1=2って誰が決めたんだ』という発言をしたようだ。この発言からは、「数学という学問が、1+1=2というルールを定めている」と捉えている印象を受ける。しかし実は違う。「1+1=2」と定義したのは、人間だ。何故そう決めたのかと言えば、そう定義すると「良いこと」があるからだ。別に「A+1=足」と定義したっていいし、「7+×÷1==Z」なんていう定義だってすることは出来る。重要なのは、そういう定義をした時に「良いこと」があるのかどうか、ということだ。その定義によって、誰かにとって(主に数学者にとってだが)「良いこと」があれば、その定義は残る。新しい概念を定義し、その定義によってどういう広がりがあるのかを考える。これが数学者の仕事だ。決して数学は、「数学という学問」が元から持っている「決まりきったこと」を掘り出すような営みではない。
実は数学者の中でも、この点についての意見は割れている。数学は「神様が作ったもの」だと考える数学者もいるし、数学は「人間が作ったもの」だと考える数学者もいる。僕は今、後者の「人間が作ったもの」だという説明をした。僕自身、どちらかの考えに傾倒しているわけではない。重要なのは、数学は「神様がつくったもの」、つまりあらかじめルールが決まっているものだと確定しているわけではない、ということなのだ。
もう一つ書きたいことがある。それは、数学は「現実」とリンクさせる必要がない、という点で自由度が高い、ということだ。
例えば、歴史の場合、「過去に起こったこと」を知ろうとする学問だ。「起こらなかったこと」について考えるのは、物語や空想であり、歴史という学問ではない。
歴史においても、「こういうことが起こったかもしれない」という考え方は仮説という形で随時出てくるだろう。しかしそれらは、何らかの資料によって事実と確定されなければ、学問としての価値は持ち得ないはずだ。
科学も同じだ。例えば物理学の世界には「ひも理論」というものが存在する。内容について詳しく知らないが、「ひも理論」は、理論としては完璧だしとても美しいと言われている。しかし、「ひも理論」を実証するためには、現在の観測技術では観測が不可能な現象を捉えなければならない。「ひも理論」は、理論上は完璧だが、現実に起こっていることであるかどうか、現時点では確定することが出来ない理論だ。「ひも理論」について考えることに価値がないわけではないが、やはり実験や観測によって正しさを証明されなければ、「ひも理論」は物理学の中で評価されない。
このように学問には、「その仮説が現実とどうリンクするのか?」が重要となるものが多く存在する。
しかし、数学は違う。数学では、現実には存在しないもの、現実と関わりを持たないものも考えることが出来る。
例えば、「虚数i」を挙げることが出来る。「虚数i」は、「2乗すると-1になる数字」だ。こんな数字は、現実世界のどこを探しても対応するものを見つけることが出来ない。「1」という数字は、「りんご1個」のように現実と対応させることが出来るが、「虚数i」は現実とは対応しない。
しかし「虚数i」は、現実の世界で非常に役立っている。例えば、パソコンに入っている半導体の動作は、「虚数i」の存在抜きには説明できないという。現実世界には、「虚数i」と対応するものは存在しないのに、その存在は現実世界で役に立っているのだ。
重要なことは、半導体の動作を知りたい、という欲求が先にあって「虚数i」が生まれたわけではない、ということだ。数学者の、「虚数iという数字があったらどうなるだろう?」という空想が、結果的に現実と結びつきを持ったのだ。
現実とどう対応するのか、という点が常に問われる学問と比べて、数学はとても自由だ。それが現実からどれだけかけ離れた概念であろうとも、定義し思考を深めることが出来る。これもまた、決まりきったことなどない、という印象を持ってもらえるのではないかと思う。
寺田蘭世の中の「決まりきったことの象徴」が、「数学」ではない何かに変わることを密かに期待している。
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