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齋藤飛鳥に文章を書き続けて欲しい理由~「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46 vol.1」前編~

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「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46 vol.01」©KADOKAWA

「別冊カドカワ」から、1冊丸々乃木坂46を特集したムック本が4月に発売された。インタビューや著名人からのコメントやイラスト、メンバー同士の対談や趣味を突き詰めた企画、お気に入りの曲紹介やメンバーが撮った写真など、様々な企画が載っている。僕自身は、乃木坂46の視覚的な部分ではなくて、内面に迫る言葉に惹かれる部分があり、そういう意味で、写真がメインではなく文字がメインであるこの特集号はとても良いと感じる。

記事を前後編に分ける形で、まずこの前編では、僕がずっと待望していた齋藤飛鳥のエッセイについて触れよう。

齋藤飛鳥に文章を書き続けて欲しい理由

『ここに並んだ文字を読んで、私という人間を見透かされるんじゃないか。文章を書きながらふとそう思いました。

が、読み返し、安心しています。いつの間にか私は私の誤魔化しかたを覚えていました。』

齋藤飛鳥は絶対に文章を書ける人だと僕は思っている。ブログでも文章は書いているが、全体的に「報告」感が強い。今回のエッセイのタイトルは、「齋藤飛鳥について書いてみる。」だ。常に内省的な雰囲気を漂わせ、自分自身も含めて様々な事柄について思考しているだろう齋藤飛鳥がどんなことを書くのか楽しみだった。

冒頭の引用は、そのエッセイの後半部分に登場する。『いつの間にか私は私の誤魔化しかたを覚えていました。』という一文は、凄くいいなと思う。『私は私を信用していないのです。』『私は自分に自信を持つことができていません。』と語るように、齋藤飛鳥は自分をとても低く見積もっている。その気持ちは、とても良くわかる。そして、自分を強く出しきれないその弱さみたいなものが、先の一文に色濃く現れているのだろうと思う。

ただ僕は知ってほしいと思った。
文章を書くことは、ある種の煙幕にもなるのだ、ということを。

先の一文は、「自分自身を表に出すことの怖さ」から来ている。文章を書くことは、確かにある一面では「自分自身を表に出すこと」だ。しかし、文章を書き続けることは、「自分自身を隠す手段」にもなりうるのだ、ということを齋藤飛鳥には感じて欲しいと思う。

文章を書き始めの頃は、書いた文章の少なさのせいで、文章が孤独を感じる。スクランブル交差点に一人で立っているようなものだ。しかし、文章を書き続けることで、スクランブル交差点に“自分という名の他人”が増える。それが増えれば増えるほど、自分が“自分という名の他人”に紛れ込み、自分自身を見えにくくしてくれる。僕はそう思っている。

何故文章を書き続けることで“自分”ではなく“自分という名の他人”が増えるのか。
それは、人間の価値観は常に変化するからだ。

その時々の価値観に沿って文章を書くと、それぞれの文章が違った自立の仕方をする。そして、それぞれの文章が他者に与える印象も、文章ごとに変化する。一徹した価値観でブレずに文章を書き続けられる人が、そう多くいるとは思えない。僕は、自分が昔書いた文章を読み返して驚くことがしばしばある。だから、文章を書くという行為を続けることで、“自分という名の他人”の中に紛れることが出来るのだ。

文章は、文字という形で定着して残る。だからこそ“自分という名の他人”が消えずに自立し続ける。喋った言葉ではそうはいかない。

もちろん、アイドルのような人に見られる仕事をしていれば、喋った言葉が文字として定着する機会も多いだろう。そういう意味で言えば、わざわざ文章を書かなくても“自分という名の他人”を生み出すことが出来る稀有な立ち位置であるとも言える。しかし、齋藤飛鳥は文章を書くべきだと思う。

何故か。

『乃木坂46に加入して約5年。私は、人に見られることはすごく怖いことだと感じています』

その通り。だからこそ、文章を書くべきなのだ。何故なら、書いた文章は「見られる」ものではなく「見せる」ものだと思うからだ。

姿形の場合、映る自分のすべてをコントロールすることは難しい。

『動画で撮影された自分を見たとき、自分の容姿について気になる部分がありました。
しかし、鏡で自分を見るとき、それはさほど気になりません。
ならば写真はどうでしょう
【盛る】という言葉の通り、うつりによって見え方が変わります。
動画だって、うつりかたさえ覚えれば見せ方は変えられます。』

そう齋藤飛鳥は書くが、しかし、自分の姿形がどう映るのか、完璧にコントロールするのは不可能だと思う。だから、姿形の場合は、「見られる」という行為になる。

文章は違う。チャットや速記をしているならともかく、文章というのは、何を見せるのか自分がかなり完璧にコントロールすることが出来る。書き、推敲し、チェックし、それから表に出すことが出来る。だから、文章の場合は「見られる」ではなく「見せる」になる。

「見られる」ことに恐怖を感じるならば、「見せる」ことに強くなればいい。姿形よりも文章の方がやりやすいはずだ。そういう意味で、文章を書くというのは齋藤飛鳥の武器になる。鉾にも盾にもなりうるのだ。だから是非これからも、齋藤飛鳥には文章を書き続けて欲しいと思う。

齋藤飛鳥に乗り越えて欲しい“もう一人の自分”

齋藤飛鳥の文章からは、“読者である齋藤飛鳥”の存在が見え隠れするように思う。

『私はわたしを信用していないのです。
なので、ここにある情報も、信じすぎないでくださいね!』

“書き手である齋藤飛鳥”が文章を書く。そしてそれをすぐさま“読書である齋藤飛鳥”がチェックをする。そして“読者である齋藤飛鳥”のチェックを通った文章だけが表に出る。そういう“読者である齋藤飛鳥”の存在を強く感じる。

だからエッセイを読んでいてもどかしさを感じる。もっと書けるだろう、と思えてしまう。

『先程述べた、周りがつけた私のイメージ。否定する気は一切ありません。見た人がそう感じたならばそれでいい。実際は全然違うとしても、自分の本性を見せる必要はそこまでないのかも』

齋藤飛鳥には、文章を書くことへの躊躇がある。というか、自分を見せること全般に対する躊躇がある。文章だけに限らない。これは、“自分が自分をどう見るか”という客観視の話なのだ。

“他人からどう見られるか”という客観視をする人は多くいるだろう。むしろ現代は、その客観視に多くの人が縛られている時代だと言ってもいいかもしれない。他人に対して自分をどう見せるか、その文脈の中で様々な言動が選び取られていく。

しかし齋藤飛鳥がやっているのはそれだけではない。僕もそうだが、“自分が自分をどう見るか”という客観視も同時に行っている。芸能人が時々テレビで、「もう一人の自分が(頭の後ろの方を指して)この辺からいつも見ている」みたいなことを言うことがある。その感覚は、僕も凄く分かる。恐らく齋藤飛鳥にも、その“もう一人の自分”がいるだろう。そしてその客観視している“もう一人の自分”が常に自分の行動をチェックしているのだ。

僕は、“他人からどう見られるか”という呪縛からは、以前と比べればかなり逃れることが出来るようになったと思う。しかし、“自分が自分をどう見るか”という呪縛からは、恐らく一生逃れられないだろう。

『元々万人受けするタイプじゃ無いのも承知しています。もっとも、したいとは思いません』

“もう一人の自分”が、文章を書く時には“読者である齋藤飛鳥”となって、“書き手である齋藤飛鳥”の邪魔をする。“書き手である齋藤飛鳥”は、恐らくもっと書けるのだけど、それを“読者である齋藤飛鳥”が止めている。
その“読者である齋藤飛鳥”をどうやって制御するか。今後文章を書く上での最大の障壁となるのがその点かな、と感じた。“読者である齋藤飛鳥”を打ち破る日が来てくれるといいなぁ。

「期待すること」と「期待されること」

語尾が統一されていない印象を受けたり、接続詞のセレクトに違和感があったりと、惜しいなと感じてしまう部分もあるのだけど、でもそれらは瑣末な部分だ。文章を書くというのは、一面では単純に技術の問題であって、その部分は書き続ければどうにかなる。

その上で、“文章を書く”というのは、“考える”と同義だと僕は感じている。考えたことを文章にする、のではない。書くことを通じて考える、あるいは、書くという習慣を手に入れることで考える習慣を持つということだ。文章という形に落としこむ行為は単純に技術の範疇だが、文章という形に落としこむ以前の部分は思考力に依存している。

そして齋藤飛鳥は、考えられる人だ。自分自身を客観的に捉え、内側に生じた感覚に最も近い言葉を選び取る。そしてさらに、読書を通じて常に、自分の内側の言葉の豊かさを更新する。そういう行為の繰り返しによって、文章というものが生まれうる場が生じる。そこに技術が加わることで、文章が生み出されるのだ。

だから齋藤飛鳥は、もっと書けると思う。
しかし、そういう風に期待されるのは嫌だろう、とも思う。僕もそうだ。

『私は世の中に期待をしていません。
どうしてか。それは、ストレスが怖いからです。』

いつも同じようなことを書くが、齋藤飛鳥のこの感覚はとても共感できる。
僕も、いつの頃からか、期待をしないようになった。

『そこで。
もしも元から期待をしていなかったら?
それならば、失望感もストレスも起こらないと思うのです。』

僕もずっと、そんな風にして生きてきた。
『期待をするという行為は、人間の勝手な支配欲でしか無い。はず!』と齋藤飛鳥は書く。齋藤飛鳥は、その支配欲自体を否定することはない。しかし、『勝手な』ものなのだから、本来的に「支配欲が満たされなくて絶望する」というのは身勝手なのだ、と悟るのだ。とはいえ、そういう自分を押しとどめることは難しい。『私は自分に自信を持つことができていません。なので執着をしてしまうのだろうと思います』と、自分自身をきちんと分析している。

「期待する=支配する」という行為をすれば、それが満たされなかった時の絶望は回避出来ない。そういう自分の性質のことは知っている。だからこそ、「期待する=支配する」という行為そのものを手放そうと決意する。僕自身がそういう価値観を選択してきたこともあって、17歳という若さで、しかも現時点でトップアイドルである乃木坂46のメンバーでありながら、一方でそういう後ろ向きな決断をする齋藤飛鳥に、僕は惹かれる。

ただ、先程少し書いたように、僕は「期待する」ことだけではなく、「期待される」ことも苦手だ。

「期待される」ことは、ありがたいことだ。そう思うことは出来る。しかし、「期待される」ことで、「裏切ることになるかもしれない」という選択肢が生まれてしまう。齋藤飛鳥が『私は私を信用していないのです。』と言うように、僕も自分のことをまるで信用していない。人生のあらゆる局面で逃げ続けてきている自分自身のことを、信用することは出来ない。誰かの期待に応えている自分ではなく、誰かの期待に応えていない自分の方が真っ先に思い浮かぶ。だから「期待される」ことが怖くなる。

「期待される」ことから逃れるために、自分を低く見せようとしてしまう。絶対的な評価で高いか低いか、そういうことはどうでもいい。現時点で自分がどこに立っていようと、現時点の自分よりも自分自身を低く見せる。そういう態度が染み付いてしまっている。

齋藤飛鳥も同じはずだ。しかしこのエッセイで、「期待される」ことについては触れていない。そういう性質が齋藤飛鳥にはないのか、あるいは敢えて書かなかったのか。分からないが、後者だとすれば、それはアイドルという『見られることが仕事』であるが故の自制なのだろうと思う。

アイドルであるということは、期待してくれている人の存在の上に立つ、ということだ。それはもう、アイドルという存在の宿命だろう。期待してくれる人の存在を、ないものとして扱うことは出来ない。だから、自分がどう思っているかはともかくとして、「期待される」ことは引き受けるしかない。このエッセイの中で、「期待する」ことには触れ、「期待される」ことには触れない理由を、僕はそんな風に想像した。

「“共感”では繋がらない」という宣言

『元々万人受けするタイプじゃ無いのも承知しています。もっとも、したいとは思いません』

他人とは分かり合えない。これは僕の基本的な価値観だ。だから僕にとってコミュニケーションの目的や到達点は“共感”ではない。“共感”は、なくても構わない。分かり合えなくても同じ空間にいられる。それこそが一つの理想なのだと、僕は考えている。だから現代の、“共感”を通貨として他人との関わりが成立していくような雰囲気にどうも馴染めない。

齋藤飛鳥の『元々万人受けするタイプじゃ無いのも承知しています。もっとも、したいとは思いません』という文章は、自分の性格を表現している文章ではない。それは一つの宣言だ。“共感”という通貨に手を伸ばしません、という宣言だと僕は捉えた。『誰かに褒められると嬉しい。相手が誰であれ好意を持たれると嬉しい。でも、それらを信じすぎてしまうという(意外とピュアな、子供らしい)癖があります。』と書く齋藤飛鳥だが、それは、「自分は“共感”を拒否しているのだから共感されにくいはずだ」という思い込み故の反動だろうと感じる。

僕は齋藤飛鳥に“共感”を抱く。しかし、齋藤飛鳥の“共感”を求めているつもりはないし、齋藤飛鳥に共感できない部分があっても自分の気持ちが揺らぐことはない。むしろどんどん、共感できない部分が出てきて欲しいと思いさえする。齋藤飛鳥に対しては、こういう捻れた、複雑な感情を抱きたくなる。

(文・黒夜行)

※本稿は、筆者が2016年4月に投稿した記事を再編集したものです。

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筆者プロフィール

黒夜行
書店員です。基本的に普段は本を読んでいます。映画「悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46」を見て、乃木坂46のファンになりました。良い意味でも悪い意味でも、読んでくれた方をザワザワさせる文章が書けたらいいなと思っています。面白がって読んでくれる方が少しでもいてくれれば幸いです。(個人ブログ「黒夜行」)

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