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センター経験が齋藤飛鳥にもたらした感情の「通路」~「blt graph. Vol.14」を読んで~

齋藤飛鳥は、何人かで喋ると、普通の女の子という感じがする。
雑誌でのインタビューの話だ。
何人かで話す場合、そこまで多く喋りはしないし、喋っても突っ込んだ意見を発することは少ないように思う。

やはり齋藤飛鳥には、一人で語らせるのがいい。
本書「blt graph. Vol.14」(東京ニュース通信社)の齋藤飛鳥のインタビューは1ページしかないが、それでも、僕が彼女に惹かれる理由が詰まったやり取りだった。

「blt graph. Vol.14」(東京ニュース通信社)

『(もっと人を信じてもいいかな、と思いましたか?と訊かれて)
「うーん、人を信じるということには直接的にはつながっていないけど…なんていうか、「人間っていいな」って思うことは増えました」』

齋藤飛鳥は頻繁に、「他人を信じていない」という発言をしている。もう少し正確に書くと、「他人から優しくされることを疑ってしまう」のだという。
しかしこのインタビューを読んで、齋藤飛鳥が一番信じていないのは自分自身なんだろう、と感じた。

『もうちょっと自分の気持ちとか欲を抑えながら生きていたいです』

『今まで抑えながら生きてきたので、それを外したときに自分がどうなるのかわからないですけど、たぶん自分が嫌いなタイプの人間になりそう(笑)』

この感覚には、凄く共感できる。

僕の、凄く些細な話を書こう。
僕は小説をそれなりに読む人間だが、既に5巻以上の長いシリーズになっている作品にはなるべく手を出さないようにしている。
何故か。それは、ハマってしまったら困るからだ。
もしもその作品が面白くて面白くてたまらなければ、出ているシリーズ作品すべて読みたくなってしまうだろう。でも、それをするための時間的・金銭的余裕に恵まれているわけではない。手を出してハマってしまったら困るのだ。だから手を出さない。

僕はあまりやりたいことを持っていない。食べたいもの、行きたい場所、欲しいモノ。そういうものがほとんどない。日常を生きている限りにおいて、自分の生き方を「気持ちや欲を抑えている」と思うことは少ないけど、傍から見ればそう見えるだろう。そんな生き方をしている根本的な部分には、ハマってしまったら困る、という感覚がある。

先程のシリーズ物の小説を読まない、という話は、「欲望をオープンにしたら嫌な人間になる」というものではないのでエピソードとして伝わりにくいかもしれない。もっと分かりやすい例を出せば、一般的に社会悪とされる事柄だろうか。一度悪いことに手を染めたら抜け出せなくなる、という感覚を持っている人は少なくないだろう。そういう感覚を、齋藤飛鳥は他の事柄にも当てはめて生きているのだと感じる。自分自身を信じていないためだ。

『前までは、べつに自分の存在がグループにとってそこまで大きいものではないので、自分のことを「乃木坂46として認めてない」っていう見方だったんです。「私はまだ認めてないからな」って』

自分を信じていない齋藤飛鳥は、だからこそ「乃木坂46の齋藤飛鳥」という存在をも信じない。乃木坂46という名前は、今の自分にその資格がないのにたまたまくっついてしまっているだけ。そんな風に捉えている。

『乃木坂46に入ってから2,3年くらいは「自分が乃木坂46にいる」という感覚があまりなかったんです。当時は中学生だったこともあり、物ごとを真剣に考えていなくて。活動に対して意欲がないとかそういうわけではなく、自分なりに一生懸命取り組んでいたつもりだったけど、いま振りかえってみると、自分のすべてが薄っぺらだったかなと感じるんです』

他のメンバーのインタビューなどを読むと、彼女らは乃木坂46に選ばれて喜びや不安を感じたというようなことを言っているように思う。それはつまり、乃木坂46として他人から認められたこと、乃木坂46という名前が自分自身につくこと、そういうことを純粋に喜び、また認められたが故の怖さみたいなものも感じたということだろう。認められたという事実を、喜びや不安という形で一旦受け止め、その上で、どう頑張ったらいいか分からない、どうすれば選抜として認められるか分からない、というような挫折や悩みに至るのだろうと思う。

恐らく、齋藤飛鳥はそうではなかったのだろうと思う。彼女にとっては、他人から認められることは何よりも大事なことというわけではない。そもそも他人のことを信じていないのだ。他人からの評価に寄りかかるはずもない。彼女にとっては、自分が認められるかどうかが何よりも大事だった。自分が自分自身のことを、乃木坂46のメンバーであると認めることが出来るかどうか。齋藤飛鳥の関心は常にその一点にあったのだろう。

齋藤飛鳥自身も、その時々で挫折を感じていたはずだ。彼女がよく発言する印象的なエピソードに、2012年の「走れ!Bicycle」初披露時の演出として、選抜メンバーをカーテンで隠すという話がある。選抜組は着飾った衣装でステージ上にいる。そして選抜ではない自分はジャージを着てそのカーテンを引く役をやらされた。凄く悔しかった、というようなものだ。
これも見方によっては、自分が周りから認められていない、認められ方が分からない、という葛藤に映るだろう。しかし恐らく、齋藤飛鳥の感覚は違ったのだろう。齋藤飛鳥は、ジャージでカーテンを閉めているような自分を、乃木坂46の一員としては認められないぞ、という、あくまでも自分の判断でそう捉えていたのだろうと思う。

自分が自分自身を認められるかどうかが常に最重要課題である齋藤飛鳥。しかし彼女は同時に、誰よりも自分自身のことを信じていない。もちろん、自分の判断も信じていないだろう。だからこそ齋藤飛鳥は、いつまで経っても自分自身を認めることが出来ない。ずっと、そういうスパイラルの中にい続けているのだろうと感じる。

「EX大衆 2017年1月号」(双葉社)の中で、卒業する橋本奈々未について伊藤純奈・齋藤飛鳥・川後陽菜の三人が話すページがある。その中で齋藤飛鳥は、橋本奈々未からずっと言われ続けている言葉があると語る。

『飛鳥にはもっと気楽に生きる方法を覚えてほしい』

そりゃあ橋本奈々未も言いたくなるだろう。最も信じていない自分自身が自分のことを認めてあげられなければダメ、というハードルは、アイドルであるかどうかに関係なく、人間として生きていくのにしんどいだろうと思う。

『それがやっとここ2年くらいで人間味が出てきたのかな?と思っていたんですけど、それも気のせいで。今年になってやっと人間らしくなったかな…と感じたんです』

自分自身のことを最も信じていない齋藤飛鳥に人間味がなかったというのは、ある意味で当然かもしれない。何故ならそれは、自分の内側に存在するものすべてを信じていない、ということなのだから。このインタビューの中では、こうも発言している。

『いえ、感情を出す、出さないというよりは、それまでは感情というものがあまりなかったんだと思います』

これは、僕の解釈では、「感情がなかった」というよりも、「自分の内側から出てくる感情を信じていなかった」ということだろうと思う。

「POP OF THE WORLD」(J-WAVE)という齋藤飛鳥がナビゲーターの一人を務めるラジオ番組を聴いていて感じることだけど、彼女は自分の感情で一旦立ち止まっているように思う。自分は今楽しいのか、辛いのか、嬉しいのか、哀しいのか…。ラジオの中でそこまで大きく感情が揺さぶられることもないだろうが、時々そういう場面に出くわすと、齋藤飛鳥は立ち止まって、自分が今どう感じているのかをきちんと捉えようとしているように思う。

そういう振る舞いは、僕も分かるような気がする。

僕は年齢を重ねていく過程で、自分が今どんな反応をすればいいのかというチューニングがかなり合ってきたと感じられるようになった。だから今は、その場その場の状況で「適切な」反応を瞬時に出せていると思う。でも、外側にどう見せるかはともかく、僕自身の内側では、いつも考えている。今自分は楽しいのか、辛いのか、嬉しいのか、哀しいのか…。常にではないが、自分の内側にある感情は、一旦立ち止まって頭できちんと捉えようとしないと分からないことが多い。

他人を見ていて、「嬉しい時にはすぐに嬉しいって分かるんだな」「怒りをすぐに怒りだと認識出来るんだな」と思うことがある。多くの人は、そこにタイムラグがないように見える。僕は、これって嬉しいんだよな、これって怒ってるんだよな、と確かめないと、自分の感情が分からない時がある。
そうやって他人と比較をすることで、「自分には感情がないんだな」と感じることは結構頻繁にある。僕自身も、内側に感情がないというわけではきっとない。それを認める方法を知らないために、感情がないと感じてしまうのだろう。そして、齋藤飛鳥も似たような感じではないかと思うのだ。

齋藤飛鳥は、今年やっと人間らしくなった、と書いている。まさにこれはセンターを経験したことによるものが大きいだろう。

『だから、今年に入ってから「感情を素直に出せるようになった」というわけではないんです。意識的に人間味を出そうと思っていたわけではないので、出てしまったのは自分としては本意ではありませんでした』

センターを経験することで、それまで自分の内側から生まれたことのなかった様々な「何か」が溢れるようにして噴出したことだろう。齋藤飛鳥は、それらに対処しなければならなかった。普段であれば、その「何か」が外側に溢れ出る前に、思考で止めることが出来る。自分が今何を感じたのか、という思考を挟むことで、感情に引きずられることなく生きていられた。

しかし、センターを経験したことによって溢れ出た「何か」は、そんな普段の対処では追いつかないほど膨大だったのだろう。最終的にそれは、齋藤飛鳥から人間味が滲み出るという結果に繋がっていった。

『どんなに身近な人や親しい関係でも、べつに見せなくてもいい部分はあるじゃないですか。だから、感情をそのまま出す必要はないのかなと思います。「もっと本音を見せてほしい」と言われていたし、もちろんそういう気持ちも理解していたけど、でもやる必要性をあまり感じていなくて。単純に頑固っていうだけなのかもしれないけど』

齋藤飛鳥はこれからも、自分の内側から湧き上がる「何か」に立ち止まりながら、それらを思考で押さえようとするだろう。しかし、センターを経験したことで、感情が外側に流れ出す「通路」みたいなものが出来てしまった。彼女自身はそれを『人間味を出す方法を身につけた』と、あくまでも自分でコントロール出来るものだと捉えたいようだ。しかしどうだろう。
齋藤飛鳥は、センターを経験したという以上の大きな変化をしばらく受けることはないかもしれない。センターを経験した時以上の感情の奔流はないかもしれない。しかしそれでも、一度出来てしまった「通路」をすり抜けていく感情はあるのではないか。別に齋藤飛鳥の人間味が表に出なくても僕は齋藤飛鳥のことが好きだろうが、「人間・齋藤飛鳥」が表に出てくることがあるならば、それを楽しみに待ってしまう自分もいる。

最後に、齋藤飛鳥のこの言葉を引用して終わろう。

『誤解されるのが嫌だったので「この人誤解しているな」と思ったら弁解していたけど、それでさらにややこしくなってしまうことも多くて。だから、今も誤解されるのはもちろん嫌だけど、別に誤解している人だって四六時中私のことを考えているわけではないので、まぁ別にいいかなと思えるようになりました』

本人が僕の記事を見ているなんてまったく想像もしていないけど、齋藤飛鳥について書いた一連の記事を読んで彼女がどんな風に感じるのかは、死ぬまでに聞く機会があったらいいなと思う。別に僕は、齋藤飛鳥をきちんと捉えているなどと思っていない。繰り返し注意するように、あくまでも、僕が齋藤飛鳥をどう捉えているかを書いているだけだ。けれど、それが齋藤飛鳥の認識と重なっているなら、それはとても嬉しいことだ。

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