僕は、今は「乃木坂46のファン」だと自分で思っているが、そうなる前は、それがどんな対象であれ、何かの「ファン」になるという経験がなかった。芸能人の誰かを好きになる、という程度のことはあっただろうけど、僕の中では「ファン」というのは、「その人・そのグループのことをもっと知りたいと思う人」だと思っていたから、テレビでちょっと見て良いなぁと思うぐらいのことは、「ファン」とは違うなと思っていた。
今では僕は、ライブや握手会にこそ行かないが、乃木坂46のシングルやアルバムは買うし、齋藤飛鳥を中心に乃木坂46が載っている雑誌があれば買う。「乃木坂工事中」(テレビ東京系)も見るし、こんな風に彼女たちについて勝手に文章を書いてみたりする。こういう行動を今までしたことがなかったので、今では自分のことを「ファン」だなと感じるのだ。
でも、「ファンであるということ」について考えさせられる、齋藤飛鳥のこんな言葉を読んで、僕は驚いた。
「―アイドルって難しいですね
難しいですよ。みんな『センターになってほしい』と言うのに、なった瞬間に『さよなら』と言う方もいるから、どっちなんだろうって」(「EX大衆」2018年1月号/双葉社)
この発言は慎重に捉えなければならない。そもそも雑誌のインタビューなので、この発言も、齋藤飛鳥が言った通りそのままということはないだろう。その上で書くが、「センターになってほしいと言うファン」と「なった瞬間にさよならと言うファン」が重なっていない可能性もあるだろう。「センターになってほしいと言うファン」は齋藤飛鳥がセンターになったことを喜び、「なった瞬間にさよならと言うファン」は、齋藤飛鳥がセンターになることを望んでいなかった、という状況は十分に想像出来る。
しかし、仮にそうだとしても僕には、「なった瞬間にさよならと言うファン」のことはうまく理解できない。
彼女は同じインタビューの中で、こう答えている。
「『センターになったからもう応援する必要ないよね』と言うファンの方もいて。ただ応援する気がなくなったことを『センターになったから』にこじつけてらっしゃるなら、それは嫌だなと思ったんです」(前出「EX大衆」)
いやぁ、そりゃあそうだろう。僕は齋藤飛鳥ではないから僕が怒るのは筋違いにもほどがあるが、そんなことを言われたらどうしたらいいか分からなくなってしまうだろう。
大人数アイドルグループの宿命として、「センター」というのは非常に大きな存在だ(余談だが、ちょっと前に見たニュースでは、新しい「広辞苑」の「センター」の項目には、「アイドルグループの中心の人」というような意味が掲載されるようだ)。全員ではないにせよ、アイドルである以上、センターになることは大きな目標の一つにはなる。齋藤飛鳥自身は、センターを特別目指していたわけではないという発言をしていたが、それでもファンからそう言われることはあっただろうし、センターというものに対してまったく無関心でいられたはずもないだろう。
それなのに、センターになった途端、応援しなくてもいいよねと言われる、というのはあまりにも理不尽だなぁと、乃木坂46で初めてアイドルファンになった僕には感じられるのだ。どうなのだろう。こういう考え方は、アイドルファンの中ではよく見られるものなのだろうか?
そもそも僕は、「センターになった=ファンを辞める」という図式に納得がいっていない、というわけではない。そもそも僕は、外側の変化だけで人の好き嫌いが変化する、ということの意味がよく分からないのだ。
似たようなことは、齋藤飛鳥自身も言っている。
「人類がみんな勘違いをしていると思うんですよ。その人の雰囲気、しぐさとか込みで『かわいい』と思うわけで、顔面だけ見て『かわいい』って言うのがよく分からない。(中略)もちろん乃木坂のメンバーをテレビや雑誌で見るとかわいいと思うけど、それって愛とか感情が入っているから、純粋な判断ではないので……」(「2017東京ドーム講演記念 乃木坂46新聞」/日刊スポーツ新聞社)
これは「容姿」に限定した話ではあるのだけど、言いたいことは同じはずだ。外側の情報だけで何かを判断することの無意味さみたいなものを、彼女自身も感じているのだと思う。
「センターになった」というのは、齋藤飛鳥にとっては外側の情報でしかないだろう。もちろん、齋藤飛鳥は様々なインタビューで、センターになったことで考え方や価値観が変わった、という発言をしている。だから、「センターになったから応援しなくなる」と言う時の「センターになった」が、「センターになったことによる変化」まで含んでいるんだったら、理解できなくもない。
しかし、たぶんそういうことではないのだろう。齋藤飛鳥が見聞きした「センターになったから応援しなくなる」という発言は、「センターになった」という外側の変化だけについて言及しているのだと僕には感じられる。
そして僕は、そんな外側の情報の変化だけで好き嫌いを判断してしまうことに、キツイ言い方をすれば嫌悪感すら抱いてしまう。
僕は齋藤飛鳥が好きだ。でも、もし齋藤飛鳥が乃木坂46に所属していなくても、何かの形で彼女の存在を知り、その考え方を知る機会があれば好きになっていただろう。センターであろうがなかろうが、恋愛や結婚をしようが、齋藤飛鳥である限り僕は彼女のことを好きでいるだろうと思う。
齋藤飛鳥はもちろん可愛いと思うし、彼女を好きになる要素として彼女の容姿がまったく無関係だなどと言うとやはりそれは嘘になるだろう。とはいえ、じゃあ齋藤飛鳥の容姿だけで彼女のことを好きになるかというと、僕の中ではそれはない。以前「自分の内側を言葉で満たすしかなかった齋藤飛鳥~乃木坂46の齋藤飛鳥に惹かれる理由~」という記事の中で書いたが、僕はある雑誌のインタビューを読んで彼女を好きになった。それよりも前に彼女の顔は知っていたが、インタビューを読むまで齋藤飛鳥には興味がなかったのだ。
人を好きになる理由なんてなんだって構わないし、人それぞれ自由だ。僕は別に、容姿や外側の情報だけで人を好きになることを非難しているわけでは決してない。それも、別に自由だし、何の問題もない。けど、「センターになったから応援しなくていい」などという理不尽はさすがに許容できないと感じてしまう。
彼女は、こうも語っている。
「応援する理由を渡さなきゃいけないのかなと考えてしまうんですよ。『自分に非がある』と思うタイプなので、どうしようかなって」(前出「EX大衆」)
あぁ、こんな風に齋藤飛鳥を歪めないで欲しいなぁ、と思う。仮に「センターになったから応援しなくてもいい」と思ったのだとしても、それを彼女に伝える必然性がどこにもないはずだ。黙って彼女の前から去ればいい。あるいは、自分に関心を惹かせるための発言なのだとすれば、なんというか最悪だ。
「運だけでここまで来てますから」(「乃木坂46×週刊プレイボーイ2017」/集英社)
「『自分のここがいいな』って思う瞬間が、19年間生きてきて1度もないですから。そんな人を、他人がいいって思うわけがないですから」(「2017東京ドーム講演記念 乃木坂46新聞」/日刊スポーツ新聞社)
「ふだん、大人数グループで活動していると、いろんなところで『自分にしかないものは何ですか?あなたの強みは何ですか?』って聞かれることが多くて。そのたびに、自分には何もない、強みがないって思ってしまうことも」(「装苑」2017年10月号/文化出版局)
齋藤飛鳥という女の子は、あれだけの容姿で、10代の若さで大人気グループとなった乃木坂46のセンターを務め、雑誌やラジオやテレビなどで活躍の場を広げているにも関わらず、それでもこれほど自信を持てないでいる。自信のなさは昔からだが、乃木坂46というグループや自分自身の存在感がどれほど大きくなろうとも、それに驕ることも偉ぶることもない。
そんな人間を捕まえて、「センターになったから応援しなくていい」と発言する意味が分からないし、そういう人は別に彼女自身にはさほど関心がなかったのだろう、とさえ思ってしまう。
齋藤飛鳥としては、インタビューで何の気なしに発言したことかもしれないし、自分の中でさほど大きなことだとも思っていないかもしれない。もしそうだとしたら、そんな発言一つを拾って殊更に怒りを発しようとする僕の今回の記事は迷惑以外の何物でもないかもしれないが、あまりにも僕が考える「ファン」という概念とかけ離れた発言だったので、素通りすることが出来なかった。
「『まわりの人や環境に期待はするけど、アテにはしない!』って気持ちは大事ですね。期待って、すればするほど裏切られたとき落ち込んじゃうじゃないですか。私、それが怖いんですよ。なので、期待するんだけどしすぎないように、セーブをかけている感じです。そうしたら感情の浮き沈みが減って、些細な幸せにも気づけるようになりました。はじめての挑戦は、やっぱり不安。でも、日々の積み重ねの中で自信をつけたり幸せや楽しさを見つけられたら、不安ってわりとすぐに消え去るものなんですよね。私は、それを早く見つけるためにも、落ち込まないようにしています」(「留学ジャーナル」2017年11月号/)
昔から齋藤飛鳥はこういう発言を随所でしている。これは僕自身の中にもある考え方だし、非常に共感できる。そして、こういう考え方を持っているからこそ、彼女は自信がない中でも自分を保つことが出来ている。
ファンからの「センターになって欲しい」という期待をアテにしていたら、「センターになったから応援しなくていい」という発言に立ち直れなくなっていたかもしれない。乃木坂46というグループは、彼女が「居場所」と呼ぶほど居心地の良い場所だろうが、芸能界というのはやはりどうしても殺伐とした雰囲気の拭えない環境だろう。そういう中で、外側の情報はどう変わってくれてもいいから、「齋藤飛鳥」が死なないで欲しいなと思う。少なくとも僕は、齋藤飛鳥が齋藤飛鳥である限り、ずっと好きでい続けたいなと思っている。
そんな彼女は、最近また新しい考え方を取り入れたようだ。
「そういう『変だな』ってことをやってみたいって思うようになりました。昔は、『みんなと一緒がいい』とまでは思っていなかったけど、『人と違いすぎること』は怖いと思ってたので。でも今は恐怖じゃなくなりました」(「週刊プレイボーイ」2018年 No.39・40/集英社)
「なんか今、「自分がイヤなことをしよう」って思っていて。今、自分が嫌いなことを吸収しようと思う時期なんです」(前出「週刊プレイボーイ」)
これも、僕の中にもある感覚で、共感できる。彼女もどんどん変化する。変化する過程で当然、僕が好きになれない考え方を取り込むかもしれない。そうなった時でさえ彼女のことを好きでい続けられるか、それはその時になってみないと分からないが、とはいえ、彼女には変化を恐れずにどんどん新しい考え方を取り込んでいって欲しいと思う。読書家であり、かつ、普通の人が体験できないようなアイドルという経験を日々出来ている齋藤飛鳥であれば、普通の人生を生きるよりもより多様な価値観と触れる機会が多くあるだろう。そういう中で、何かに流されるのではなく、自分で様々な考え方を掴み取って熟成させる人であって欲しいなと思う。僕は、それが出来ている齋藤飛鳥が好きだし、その部分が無くならない限り、彼女のことを好きでいられるような気がする。
飛鳥の言っていることはほぼ同意するが
かわいいは顔面だけだな
しぐさでマイナスになることはあってもプラスにはならない
それは俺がオタクではないからかもしれない
オタクはよく性格がーと言っているのをよく見る
コメント、ありがとうございます~。
僕は、「かわいい」という判断はともかく、
誰かに興味を持つ時は、その人の考え方とか価値観の方に強く惹かれます。
まあだから何が言いたいかというと、
色んな人がいますよね、ということです(笑)
「握手会へ行こう」はお読みでしょうか?
本人のコメントは掲載されていなかったと思いますが、乃木坂46の握手会は既存のアイドルの握手会とは違った独特の文化を形成している。といった視点でメンバー個々の握手会の特徴を紹介した書籍です。
改訂版も出ているようですが、2014年秋発刊。飛鳥ちゃんのツンツンぶりが色々話題になり始めたころでさしすね。
初期の飛鳥ちゃんはとにかく「最年少」という言葉に呪縛されているような状態でした。デビューシングルで選抜に入っていたものの、1曲選抜に入ったら、次は2曲連続でアンダーそして1曲だけ選抜にもどるという法則があるような状態でなかなか個性がみえてこなかった印象があります。
橋本奈々未の驚異的な嗅覚を紹介するために楽屋から
スタジオから持ってこられた飛鳥ちゃんの服が熊の顔が描かれたトレーナー(セーター?)に「やっぱり子供なんだな!」という印象を受けました。
最年少 という言葉以外の印象がほとんどなかった飛鳥ちゃんの握手会でのツンツンぶり、そして、「お前ら、クリスマス一緒に過ごす相手 いないんだろ!」発言。この本が出版されたころ(単なる偶然でしょうが!)から飛鳥ちゃんの注目度が上がり、選抜常連になっていきましたね。
握手会の特徴という視点の一点にしぼっていますが、乃木坂メンバーの個性を端的に著した書籍ですので、お読みでなければ、ぜひお読みください。(できれば、旧版の方を)
コメントありがとうございます~。
「握手会へ行こう」は読んでないなぁ。
タイトルだけだと、ただ「握手会をどう楽しむか」ってアドバイス本って感じしますけど、「乃木坂46の握手会は既存のアイドルの握手会とは違った独特の文化を形成している」っていう視点で書かれているっていうのはちょっと興味ありますね。
僕は今に至るまでライブにも握手会にも行ったことがないので、その方面での飛鳥さんの変化みたいなものはなかなか分からないですけど、
インタビューを様々に読んでいると、自分がアイドルとしてどうあるべきかかなり悪戦苦闘している様を見て取ることが出来るなと思います。
正直、僕が齋藤飛鳥を好きになった時は、まだ飛鳥さんはそこまで人気メンバーではなかったので、現在に至るまでの変化は正直びっくりだなぁと思っています。
「握手会へ行こう」は、なかなかスッとは手に入りにくそうな本ですが、機会があれば読んでみたいと思います~