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アイドルである自分に違和感を抱き続ける齋藤飛鳥~齋藤飛鳥に惹かれる理由2~

最近、乃木坂46絡みのネット上のインタビューを根こそぎ探そうと思いたったのだけど、齋藤飛鳥のインタビュー記事は少ない。以前も書いたが、僕は齋藤飛鳥の言葉や生き方や価値観に興味があるので、文字情報がもっと多いといいなと思うのだけど。

相変わらず、何故齋藤飛鳥が好きなのか、日々考えている。

齋藤飛鳥の容姿はもちろん好きだ。けど、言葉や生き方や価値観に強い興味がある、という話は、以前書いた。

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それ以外に僕はこんなことを考えた。

ここで僕が書くことは、妄想だ。僕が、齋藤飛鳥を見る時に、どんな“メガネ”を掛けているか、という話だ。

Through the looking glass - A travers le miroir

齋藤飛鳥は、「アイドルである自分」に、違和感を抱えているはずだ。これが、僕が齋藤飛鳥を見る時の“メガネ”である。僕の視界に入った、ごく少ない齋藤飛鳥に関する情報から、僕はそんな“メガネ”を通して齋藤飛鳥を見るようになった。

齋藤飛鳥はよく、「アイドルらしく振る舞えない」という趣旨の発言をしているように思う。もちろん、そういうキャラ付けの可能性もあるのだろうけど、僕は、これは齋藤飛鳥の本音なのだろうと受け取っている。

もう一歩進めて、齋藤飛鳥は、「多数派に馴染めない人」ではないかと思う。これは、僕自身がそうだから、齋藤飛鳥もそうだったらいいな、という僕の願望も含んでいる。

「多数派」に馴染めないからこそ、当然「アイドル」にも馴染めない。「アイドル」というのは、出来るだけ多くの人に好きになってもらうことが一つの目標となるはずだ。でも「多数派」に馴染めない人は、その出来るだけ多くの人に好きになってもらう状態に耐えられない。違和感を覚える。おかしいぞと思う。

「アイドル」としては、なかなか致命的だろう。

どこで読んだか忘れたが、齋藤飛鳥は、自らアイドルに憧れて乃木坂46のオーディションを受けた、と書いてあったように思う。それを知っていると、矛盾しているじゃないか、と思うかもしれない。

けど、「多数派」に馴染めない自分にきっと、乃木坂46に入ってから気づいたのではないか、と思う。

僕自身は、そうだった。子どもの頃は、確かに周囲の考え方や行動に馴染めないことは多かったのだけど、自分が「多数派」に馴染めない人間だときちんと認識していたわけではなかった。そういうことをちゃんと認識出来たのは、もっと大人になってからだ。

齋藤飛鳥も、そうなんじゃないかと思う。乃木坂46として活動する中で、「多数派」に馴染めない自分を発見したのではないか。

そして、その事実に悩んで苦しんでいる。
これが、僕が齋藤飛鳥に対して抱いている妄想だ。

だから齋藤飛鳥を見る度に僕は、「ホントはアイドルに向いてないことは分かってるはずなのに頑張ってるなぁ」という、なんだか健気な感じを勝手に受け取ってしまうのだ。

たぶんこの“メガネ”を掛けて彼女を見てしまうから、僕は齋藤飛鳥に余計に惹かれるのだろうな、と思う。

齋藤飛鳥は、ファンに向かって「うるさい」「黙れよ」みたいな、字面だけ見るとちょっと乱暴な発言をすることもある(そう言う時の彼女は大抵笑顔だ)。そういうドS的な振る舞いも人気の一因のようだ。僕も、容姿とミスマッチなそういう振る舞いは大好きだ。しかしその一方で、僕は勝手にそういう振る舞いを、「アイドル」的に振る舞えない齋藤飛鳥のSOSと捉えてしまう。たまにそういう自分を出していかないと、全体として自分のバランスが取れないのだろうと思ってしまうのだ。「アイドル」という引力に引きずり込まれて自分を見失わないように、「多数派」から意識的に遠ざかろうとしてしまうのだろうと思うのだ。だから、勝手に受け取ったそのSOSが僕に、齋藤飛鳥を応援したい気にさせるのだろうな、という気がする。そうだよなぁ、そういう面も出していかないと辛いよなぁ、と。

「多数派に馴染めない人」だと感じるのは、齋藤飛鳥だけではない。例えば、橋本奈々未や西野七瀬にも、そういう雰囲気は感じる。彼女たちと齋藤飛鳥は、僕の中で何が違うのか。

一番大きな違いは、選抜メンバーであった期間の違いかもしれない、と今は考えている。

橋本奈々未も西野七瀬も、デビューシングルから選抜メンバーに選ばれ続けてきた。だから、「多数派」にさらされる時間が長かった。

長かったからこそ慣れたという面もあっただろうし、長かったからこそ諦めたという面もあるだろう。選抜メンバーであれば、必然的に「多数派」にさらされることが多いだろうし、だから苦手だなんて言っていられないという部分があるのではないか。だから、自分を無理やり作り変えた部分もあるだろう。あるいは、「多数派」にさらされるのが日常になってしまったが故に、その状況を諦念と共に受け入れたということもあるだろう。仕事だから、という言い方をすると言葉が悪いが、それが自分の役割なのだということを受け入れて、役割を全うするという形で対処していった部分もあるだろう。

しかし齋藤飛鳥は、2015年に躍進したメンバーだ。それまでほとんどずっとアンダーメンバーであり、選抜メンバーとして定着しつつあるのはここ最近の話だ。また、様々な形でモデルとして活躍したのも2015年からだろう。

アンダーメンバーだった頃はきっと、「もっと多数派の方を向かないと」という気持ちもあったんじゃないかと思う。選抜メンバーとして選ばれるためには、出来るだけ多くの人から人気を得る必要がある。「多数派」に気持ちが向かう部分はあっただろう。

しかし、2015年に躍進したことで、それまで追い求めていた「多数派」が一気に齋藤飛鳥の現実にやってきた。齋藤飛鳥は色んなインタビューで、「自分が躍進した実感はない」という発言をしているのだけど、とはいえ、アンダーメンバーだった時とは違う、何らかの目に見える変化は感じているだろうと思う。その変化から、「多数派」の存在を感じ取れるのではないかと思う。

そんな現実に困惑している。それが今の齋藤飛鳥なのではないか。僕はそんな風に感じる。他の「多数派に馴染めない人」と齋藤飛鳥との違いは、そういう違いがあるように思う。

そういう意味で僕がちょっと怖さを感じているのが、齋藤飛鳥が「多数派」という現実に慣れてしまうことだ。それは、「アイドル」としては良いことだろうから、そうなった齋藤飛鳥を喜ぶべきかもしれない。でも、僕は今の、「多数派」に慣れきれない齋藤飛鳥が良いなと思っているはずだから、変わってほしくないなという気持ちもある。

さて、一応再度書いておくが、今回ここに書いたことは、すべて僕の妄想である。齋藤飛鳥に関する断片的な情報を僕の頭の中で勝手に膨らませて作り上げた、イメージの齋藤飛鳥の話である。現実の齋藤飛鳥とは、まるで似ても似つかないものかもしれない。

でもまあ、別にいいじゃないか、と思うのだ。何にしたって、僕が、齋藤飛鳥の本当の姿を知る機会は、まずないだろう。イメージの齋藤飛鳥を“メガネ”として齋藤飛鳥を見ることで、その一挙手一投足に興味が持てるなら、まあそれでいいじゃないか、と。

(文・黒夜行)

※本稿は、筆者が2016年3月に投稿した記事を再編集したものです。

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筆者プロフィール

黒夜行
書店員です。基本的に普段は本を読んでいます。映画「悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46」を見て、乃木坂46のファンになりました。良い意味でも悪い意味でも、読んでくれた方をザワザワさせる文章が書けたらいいなと思っています。面白がって読んでくれる方が少しでもいてくれれば幸いです。(個人ブログ「黒夜行」)

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