Nogizaka Journal

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橋本奈々未が捉える「自己の境界」~「BRODY 2016年10月号」を読んで〈前編〉~

言葉や価値観に惹かれる傾向にある僕は、雑誌を買う時に、インタビュー記事がたくさん載っているかで判断することが多い。

先月発売された「BRODY」(白夜書房)の隔月刊誌としての独立新創刊号は、そういう意味で、とても良い雑誌だった。表紙に「乃木坂46結成5周年サマー大作戦」の文字が大きく踊るだけあって、乃木坂46関連のインタビューが、非常に充実していた。

冷徹な観察者・橋本奈々未

Nogizaka46 2nd Album "Sorezore no Isu" Promotional Event "Nogiten" at Shibuya Tsutaya: Hashimoto Nanami

乃木坂46のインタビューで、圧倒的な存在感を放つのは橋本奈々未だ。彼女のインタビューをすべて追っているわけではもちろんないのだが、どれを読んでも、問われたことに対する理解度、自分自身に対する客観視、価値観を言葉にする言語力など、アイドルだから、ということではなく、一人の人間としてそれらの能力に優れていると感じさせる。

橋本奈々未は、常に「冷徹な観察者」という感じがする。「冷徹な」という形容が正しいかはともかく、いつどんな場にいても「観察者」として存在している、というのは多くの人が抱く感覚ではないかと思う。そして、観察対象との距離感みたいなものが、どことなく「冷徹さ」を感じさせる。

『私の場合、笑うツボが小さいころから周りとあまり合わなかったりして。』

この感覚は僕にもあって、こういう感覚は人を「観察者」にさせるのだと感じる。周りとの価値観にズレを感じなければ、周りを殊更に観察する必要はない。しかし、周りとの価値観にズレを感じれば、周囲と溶け込むためには観察することが必須となる。何故いま笑っているのか、何故いま泣いているのか、他人はどういう時にどういう行動をするのか、自分の行動はどう見られているのか……。観察し、言葉や感覚として捉え、カムフラージュとしてそれらを表面にまとっていく。学生時代に学校という狭い世界の中で生き抜くためには必須の能力だろうし、橋本奈々未はその力が異様に発達しているのだろうと思う。

「本来の自分」と「アイドルとして見せる自分」の境界

そんな橋本がインタビューの中で語っているのは、「自分の境界」についてだ。

『自分が思ってる自分が「自分じゃない」って言われることがあるんですよ。「ななみんってこうだよね」っていうイメージがひとり歩きしちゃうんです。(中略)どこからが本当の自分の意志でやっていて、どこまでが周りに求められてやっていることなのか、たまにその境界線がわからなくなることはありますね。』

アイドルに限らず、他者に見られることを仕事にしている人のメンタリティがどうなっているのか、その一般的なところは僕にはまるで分からないが、橋本奈々未は、アイドルという仕事を通じて、「本来の自分」が変化していくのではないか、という危惧を抱いている。

『うん、思ってないことは言えないんだよね。』

そう語る橋本は、恐らく、「本来の自分」と「アイドルとして見せる自分」を出来る限り近づけようとしているのだろう。近づけよう、というか、遠ざからないように、という感覚だろうか。例えば同メンバーの秋元真夏は、「本来の自分」と「アイドルとして見せる自分」を意識的に離し、まったく違うものとして扱っているだろう。そういう生き方が出来る人もいる。しかし橋本奈々未は、自分の感覚としてそれはやれない。「本来の自分」と「アイドルとして見せる自分」は、限りなく肉薄している。

だからこそ、その変化にも敏感なのだろう。

彼女はおそらく意識的に、「本来の自分」と「アイドルとして見せる自分」を定期的に比較しているのだろう。そしてそこがあまりズレないことが、自身がアイドルとしてやっていく上での一つのルールみたいなものとして機能しているのだろう。しかし、「アイドルとして見せる自分」は、様々な要因によって変化していく。基本的に、「アイドルとして見せる自分」というのは受け取り手のものだからだ。「本来の自分」と「アイドルとして見せる自分」を定期的に比べている橋本は、「アイドルとして見せる自分」に「本来の自分」が引きずられるような感覚を持っている。

『このお仕事をしていると失うものも多いと思ってるんですよ。それはあくまで私の性格上のことなんですけどね。だからなるべく変わらないほうがいいとは思うし、昔はこんなこともできていたのにって感じることも多いから、それは忘れないようにしておきたくて。』

“アイドル”という仕事が橋本奈々未から奪うもの

「アイドル」としては異質の存在感を放つ橋本奈々未は、アイドルという仕事が自分から何を奪っていくのかということについても冷静に観察する。それは、プライバシーや自由といった、他者に見られる仕事につきものの、誰でも思いつきそうなものではなく、もっと感覚的なものだ。

『ひとに対する気遣いとか優しさ…わかっているのに優しくできないとか、そこに寄り添ってあげられない自分の気持ちの弱さとか。意地悪な気持ちが生まれやすい環境ではあると思うから、そこに自分が侵食されたくないと思ってるのかもしれない。』

こういう感覚を未だに維持できている、ということが、橋本奈々未の凄さの一端だろうと思う。乃木坂46が結成されてから5年。5年も一つの環境にいれば、その環境における「普通」に価値観が馴染んでしまうのが当然だろう。その中で橋本は、自分がかつて持っていたもの、今まさに失われつつあるものなどに対して自覚的だ。アイドルという仕事に就いた以上宿命であると諦めている部分もありながら、それでも「本来の自分」を手放さないようにしようという芯を持ち続けている。

橋本奈々未は、アイドルとして生きている中で、ある種の限界のようなものを捉えたのだろう。「アイドルとして見せる自分」を持つ以上、そして持たざるを得ない以上、それは「本来の自分」からは離れていくのだし、その乖離を完全に自覚し切るのは無理なのだ、と。だからこそ、将来地元に戻った時に、と指標を外に用意した。これもまた、非常に冷静だ。「本来の自分」の変化を感じ取るために、「地元(の友達)」との関係性を注視する。そんな風にして、自らの思考力・言語力に加え、客観的な指標をきっちりと手放さないでいることで「本来の自分」を保ち、「自分の境界」を認識し続けているのだろうと思う。

彼女の客観的な物の見方は以前から凄いと感じていたが、改めてその凄さを実感したインタビューだった。

「誰かのため」にしか頑張れない橋本奈々未

さて、そんな橋本奈々未は、客観視の能力が高いが故に、こういう性質を身にまとうことになる。

『これをサービス精神と言っていいかはわからないんですけど、少なくとも私は自分のためにはがんばれないんですよ。』

この感覚は、客観視によってもたらされていると僕は感じる。
客観視というのは、自分が自分を見るのではなく、他者として自分を見ることだ。つまり橋本奈々未は、常に「誰かから見た自分」を意識していることになる。

僕も基本的に似たタイプだから同じような発想になるのだけど(僕も、自分のために頑張るのはなかなか難しい)、常に「誰かから見た自分」を意識しているが故に、その「他者視線」を満足させるように行動してしまう。

『だから羨ましいじゃないけど、自分が必死になれるということは、自分が役に立ってると感じられるということだと思っていて。(中略)このお仕事をしていると、どうしてもそれが伝わりづらくて。求めてくれている人に自分がしたことが与えている影響って、まったく自分があまり知らないところで起こっているわけじゃないですか。だから握手会で「こういうときにこういうことを言ってくれたからがんばれました」みたいに言われるのはすごくうれしいけど、自分の中でまったくリアリティが伴ってこないんですよね。』

自分を常に外側から見ていると、「何かしたい」「こうなりたい」みたいな、「自分」という立脚点を必要とする望みは生まれにくくなるし、次第に、「他人がして欲しいと望んでいること」を提供できることの“楽さ”(“楽しさ”ではなく)を感じるようになっていくだろう。その感覚はとてもよく分かる。

「本来の自分」を否が応でも変質させる「アイドルとして見せる自分」を持たざるを得ないアイドルという仕事に危惧を抱きつつ、同時に、求められることを返すことによって「本来の自分の境界」をはっきりさせていく橋本奈々未。「ロケ弁が食べられるから」という衝撃的な理由で乃木坂46のオーディションにやってきた彼女は、最初から、そして今なお、「アイドル」という枠組みから外れ続けていると言えるだろう。アイドルという仕事が、自分を失わせ、同時に自分をはっきりとさせる。その奇妙なバランスと危うさが、橋本奈々未という稀有なアイドルを作り上げているのだろうと、改めて認識させられた。

関連「本来の自分」と「アイドルとして見せる自分」~「BRODY 2016年10月号」を読んで〈後編〉~

筆者プロフィール

黒夜行
書店員です。基本的に普段は本を読んでいます。映画「悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46」を見て、乃木坂46のファンになりました。良い意味でも悪い意味でも、読んでくれた方をザワザワさせる文章が書けたらいいなと思っています。面白がって読んでくれる方が少しでもいてくれれば幸いです。(個人ブログ「黒夜行」)

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